鄭道伝(チョン・ドジョン:정도전:1342-1398.8.26)は高麗末期から朝鮮初期にかけて活躍した文人。
高麗から朝鮮に国体が変わった激動の時期に、歴史の中心で新しい王朝を設計した人物だった。
しかし、自分の夢であった性理学的理想世界の実現を見ることなく、結局は政敵の剣により断罪される。そのため、時代が下った朝鮮王朝の末期になり、ようやく再評価されるという極端な生涯を送った。
字は宗之(チョンジ:종지)、号は三峰(サンボン:삼봉)、諡号は文憲(ムニョpン:문헌)。号が非常に有名で三峰先生と呼ばれることも多い。
鄭道伝(左)と朝鮮太祖(テジ)李成桂(右)
父は檢校密直提學/検校蜜直提学(コムギョミルジクジェハク:검교밀직제학)だった 鄭云敬(チョン・ウンギョン:정운경)、母は丹陽 禹氏(タニャン ウシ:단양 우씨)の分派である栄川禹氏(ヨンチョン ウシ:영천 우씨)ウ・ヨンの娘だ。
鄭道伝の家門の出処は慶尚道の北側にある奉化(ポンファ:봉화)であり、本貫も奉化だ。
その生涯は高麗史(コリョサ:고려사)列伝巻第32にまとめられていることからもわかるように、歴史的にも重要人物だ。
鄭道伝の生涯 要約
鄭道伝(1342年-1398年8月26日)は高麗末期、朝鮮初期の文臣、儒学者で詩人であり、外交官、政治家、思想家、教育者だ。
科挙に及第後、成均館(ソンギュングァン:성균관)などに在籍しながら性理学を奨励し、外交的には権門勢族(クォンムンセジョク:권문세족)に対抗して明との外交論を主張する。
何度も罷免と復職を繰り返し、1383年、李成桂(イ・ソンゲ:이성계)と出会い政事を論じて易姓革命論者となった。
以後、圃隱(ポウン:포은)鄭夢周(チョン・モンジュ:정몽주)、李成桂などと共に禑王(ウワン:우왕)と昌王(チャンワン:창왕)を廃位させて恭譲王(コンヤンワン:공양왕)を推戴し、1392年、朝鮮建国を主導して開国功臣1等に録勲された。
官職は判三司事パンサムササ:판삼사사)を経て大匡輔國崇祿大夫(テグァンボグク スンノクデブ:대광보국숭록대부)と領議政府事(ヨンイジョンブサ:영의정부사)も追加されており、奉化伯(ボンファベク:봉화백)に封爵された。
朝鮮建国の一等功臣であり最高権力者だった彼は、朝鮮の理念的土台をつくり、すべての体制を整備し、朝鮮王朝500年の礎を築いており、漢陽(ハニャン:한양)内の建物と街の名称をを直接整備したという。
第1次遼東征伐(1388)と第2次遼東征伐(1392)に反対したが、遼東を征伐する計画を立てて明と外交摩擦をもたらし、功臣と王子たちが私的に保有した私兵を廃止しようとしたて対立する。
その後、神徳王后(シンドクワンフ:신덕왕후)康氏(カンシ:강씨)が産んだ李芳碩(イ・バンソク:이방석)などを王世子に推戴しつつ、遼東征伐を計画して明の太祖・朱元璋と対立していたところ、李成桂の5男・李芳遠(イ・バンウォン:이방원)が政変を起こし、1398年8月第1次王子の乱において、李芳遠の兵士たちに殺された。
性理学理念の普及に寄与し、彼は安珦(アンヒョン:안향)、白頤正(ペク・イチョン:백이정)、李齊賢(イ・ジェヒョン:이제현)の学統を継承した李穡(イ・セク:이색)の門下生であり、鄭夢周、権近(クォン・グン:권근)の同門に、後には鄭夢周、吉再(キルジェ:길재)の門下生たちによって蔑視された。
朝鮮社会に性理学を定着させ国教化させるのに功を立てた。神徳王后康氏とともに世子冊封に力を入れていた鄭道伝は、第1次王子の乱以後、朝廷で徹底的に排撃された。
太宗(テジョン:태종:イ・バンウォン)は彼を賊とした後、鄭夢周を追上し、その後は鄭道伝が逆賊の代名詞として歴史の中で罵倒されてきた。
けれど、第26代高宗(コジョン:고종)の時に復権されることとなった。
後日詳細を記述します。今はまだWikiに負けてます(笑)