梨峴宮(イヒョングン) 淑嬪崔氏の悲しいお話
2014/04/13
[ad#300-250]トンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)を宮廷外に住まわせることを決断した粛宗(スクチョン:숙종)。
そして、それは世子(セジャ)昀(ユン:윤)と延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)を共に王にするための決断だった。
トンイ第57話はトンイと粛宗の夢(理想)が重なりあいながらも、どことなく悲哀を感じさせながら進みましたが、もちろん史実ではなくフィクションです。
けれども、淑嬪崔氏(スクビンチェシ)は実際に1701年10月から1704年4月の間のどこかのタイミングで宮廷を去り、ドラマの中で描かれていたように梨峴宮(イヒョングン:이현궁)で暮らします。
梨峴宮(イヒョングン)は現在の仁義洞(イニドン:인의동)にあります。正宮の昌徳宮から南に1km弱のところで、現在でも過去でも地理的には漢城府の真ん中です。
現在ではその建物はすでにありません。
宮と名がついていますが、王族が住む私邸は宮の名をつけて呼ばれるため正式に宮とされるほど巨大なものではありません。
ただ、私邸にしてはかなり敷地も広く立派でした。
梨峴宮(イヒョングン)は1610年ごろからあり、歴代の王族の誰かが使用しています。淑嬪崔氏(スクビンチェシ)が住んでいる時には彼女の名をとり淑嬪房(スクビンバン:숙빈방)と呼ばれていました。
淑嬪崔氏(スクビンチェシ)がなぜここで過ごすことになったのか。そのことについては全くわかっていません。彼女が肅宗に疎まれたのか、それとも自ら出ていく道を選択したのか。歴史の謎に包まれています。
ドラマ・トンイでは世子(セジャ)に譲位し延礽君(ヨニングン)を世弟(セジェ)とすることで、二人の生きる道をつくるという粛宗の選択が描かれ、粛宗も上王(サンワン)となってトンイとともに梨峴宮(イヒョングン)へ移り住むというストーリーでした。
けれども、史実では世子の跡継ぎ問題は即位後に噴出した話ですし、最もかわいがったとされるもう一人の王子・昍(훤:フォン)がいるため、後継者の選択は2択ではなく3択でした。ですので、ドラマのような解釈は根本的に成立しません。
梨峴宮(イヒョングン)と淑嬪崔氏(スクビンチェシ)にはとても悲しいエピソードがあります。
現在ドラマの年代は1702・3年とおもわれますが、その10年後の1711年6月22日の肅宗のつぶやきが実録に残されています。
「昔の梨峴宮は現在の淑嬪房だ。 周囲が広く大きさが他の宮と比較できないほどだ。輿に乗って通るたびに心が常に痛む。 今は延礽君(ヨニングン)の私邸をにすでに決めたので、この家(私邸)に同居しても不可であることでない。」
そう言って、淑嬪崔氏を延礽君の私邸・彰義宮(チャンウィグン:창의궁)へ移すことを命じたのでした。
淑嬪崔氏はその間一人で過ごしています。そして、実録などを見ても粛宗はそばこそ通れども淑嬪房(スクビンバン)に立ち寄ることはありませんでした。
この頃の朝廷は財政も逼迫しており、大きい屋敷を独り占めしている淑嬪崔氏が槍玉に上がっている記録もあります。そのため、延礽君(ヨニングン)の私邸で一緒に住むように命が下ったのですが、淑嬪崔氏にとっては愛する我が子と暮らし、嫁にもかしずかれて、そのほうが幸せだったことでしょう。
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