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韓国歴史年表トンイ編について トンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の 経歴には赤紫の着色をしています 3大換局は赤い太字で表記しています 巫蠱の獄事も赤い太字で表記しています 日付は旧暦です(不明なものは表記なし) トンイという名称はフィクションですが便宜上使用しています 年齢は韓国式です。日本式プラス1歳となります |
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政権党 | 年月日 | 事項 |
1661 | 仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후:1661~1680)誕生 | |
1661(顕宗2)8.15 | 粛宗(スクチョン:숙종)誕生 | |
1662 | 張玉貞(チャン・オクチョン:장옥정)誕生(1659年説もあり) | |
1667正月 | 粛宗、王世子に冊封される | |
1667 | のちの仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후:1667~1701)誕生 | |
1670 | トンイことのちの淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙 빈최씨)誕生 | |
1672 | トンイ3歳で母を亡くす | |
1674 | トンイ5歳で父をを亡くす | |
1674.8 | 粛宗即位 | |
1676(粛宗2) | 崔氏 7歳で入宮 | |
1677 | 大同法を慶尚道で開始 | |
西人 | 1680(粛宗6)3・4月 | 庚申 換局(キョンシンファングク:경신환국) 西人が老論(ノロン)と少論(ソロン)に分裂 |
1680.10.26 | 粛宗の最初の中殿である仁敬王后死去 享年20歳 | |
張玉貞が寵愛を受けるが明聖王后により宮廷を追われる(1680年10月から1681年3月の 間のどこか) | ||
1681 | 仁顕王后 15歳で継妃として入宮 | |
1682 | 第7回朝鮮通信使を派遣 | |
1684.1.21 | 粛宗の母 明聖王后(ミョンソンワンフ キムシ:명성왕후:1642-1684)死去 | |
1686(粛宗12)5.27 | のちの寧嬪金氏(ヨンビンキムシ:영빈 김씨:1669〜1735)17歳で従2品・淑儀(スギ:종2품 숙의)として揀擇により入宮 | |
1686 | 張玉貞(チャン・オクチョン:장옥정)再入宮 | |
1686.11.5 | 金氏 従1品貴人(チョンイルプン クィイン:종1품 귀인)に昇格 | |
1686.12.10 | 張玉貞 従4品淑媛(スグォン:숙원)となる | |
1687 | のちの仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ:인원왕후)誕生 | |
1688 | 張玉貞 正2品昭儀(ソウィ:소의)へと昇進 | |
1688.8.26 | 仁宗の継妃 荘烈王后(チャンヨルワンフ:장렬왕후)65歳で死去 | |
1688.10.27 | 王子昀(ユン:윤:後の景宗)を生む | |
1689.1.11 | 王子昀を元子に冊封 元子定号(ウォンジャジョンホ:원자정호) | |
1689(粛宗15)1.15 | 張玉貞 内命婦の最高位 嬪(ピン:빈)となる 張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈) | |
1689.4.22 | 金氏 王后よりも先に宮中を追われる | |
1689(粛宗15)5.2 | 仁顕王后 廃される | |
1689.6.3 | 西人の領袖で儒学の大家 宋時烈(ソンシヨル:송시열)賜死 | |
南人 | 1689(粛宗15) | 己巳換局(キサファングク:기 사환국) |
1690.6.16 | 王子昀 王世子に冊封される | |
1690.9.16 | 張禧嬪 王子を産むが10日で夭折 | |
1690.10.22 | 張禧嬪が中殿(チュンジョン:중전)に冊封される | |
金春澤(キム・チュンテク:김춘택:1670-1717)を中心に閔氏(ミンシ:민씨:廃庶人となった仁顕王后)の復位運動(「閔氏重定運動」)が展開さ れる |
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1689-1692 | 金萬重(キムマンジュン:김만중:1637-1692) 謝氏南征記 (サシナムジョンギ:사씨남정기)を執筆 | |
1692.4.22以降 | 崔氏 承恩尚宮(スン ウンサングン:승은상궁)となる 仁顕王后の誕生日4/23の1日前に粛宗と出会う | |
1693.4.26 | 崔氏 従4品淑媛(ス グォン:숙원)となる 24歳 | |
1693.10.6 | 崔氏 最初の息子・永壽(ヨンス:영수)王子を 産むが、わずか2ヶ月で夭折 | |
西人 | 1694(粛宗20)4.1 | 甲戌換局(カプスルファング ク:갑술환국) |
金氏 復位 | ||
1694.4.9 | 仁顕王后復位の御命が下る | |
1694.4.12 | 張氏 禧嬪に降格 | |
1694.6.1 | 仁顕王后復位 | |
1694.6.2 | 崔氏 従二品(チョンイプム:종2품) 淑儀(スグィ:숙의)となる | |
1694.9.13 | 崔氏 王子・昑(クム:금)のちの延礽君(ヨニ ングン:연잉군)を産む | |
1695(粛宗21)6.8 | 崔氏 従一品(チョンイルプム:종1품) 貴人(クィイン:귀인)に昇格 | |
1698(粛宗24)7.7 | 崔氏 3人目の男子を産むが3日で夭折 | |
1698.8.2 | 劉氏 従四品(チョンサプム:종4품) 淑媛(スグォン:숙원)となる | |
1698.11.14 | 朴氏 懐妊し従四品淑媛(スグォン:숙원)となる 承恩尚宮となって10年の時が経っていた | |
1699年(粛宗25)6月13日 | 朴氏 王子昍(훤:フォン)のちの延齢君(ヨルリョングン:연령군)を生む | |
1699(粛宗25)10.23 | 崔氏 内命婦の最高位
嬪(ピン:빈)となる 淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨) 30歳 劉氏と朴氏も従二品淑儀となる 第6代端宗(タンジョン:단종)の復位を記念して |
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1699.12.24 | 王子・昑(クム:금) 6歳で延礽君(ヨニングン:연잉군)に冊封される | |
1701(粛宗27)8.14 | 仁顕王后 病没 享年35歳 | |
1701.10.7 | 嬪御(ビノ:빈어)を后妃(フビ:후비)に昇格することを禁止する法を制定 | |
1701.10.8 |
承政院(スンジョンウォン:승정원)を通じて公式に張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)に自ら命を絶つよう御命を下す |
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1701.10.10 |
禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)賜死 享年43歳 ※ 10/10に死が公表された | |
巫蠱 の獄事(ムゴエオクサ:무고의 옥사) 前記の一連の事件 | ||
1701.10.29 | 張希載(チャン・ヒジェ:장희재)伏誅(罰を受けて死ぬこと)後日、罪に対する処分が足りぬと いうことで陵遲處死(ヌンジチョサ:능지처사)とし、死体が切り刻まれた。 | |
1702.10.13 | 仁元王后(インウォンワンフ:인원왕후)が第2継妃となる(3番目の 王妃) | |
淑嬪崔氏 王宮を離れ 梨峴宮(イヒョングン:이현궁)に居を移す(1701.10-1704.4の間のどこかで) 梨峴宮は淑嬪房(スクビンバン:숙빈방)と呼ばれるようにな る | ||
1702 | すべての後宮の品階が上がる 正一品榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ) 正一品寧嬪金氏(ヨンビン キムシ) 正二品昭儀(ソウィ)劉氏 | |
1703.7.15 | 榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ:명빈박씨)死去 | |
1703(粛宗29)9.3 | 王子昍(훤:フォン) 5歳で延齢君(ヨルリョングン:연령군)に冊封される | |
1704(粛宗30) | 延礽君結婚 王宮に留まり続ける | |
1705.5.1 | 宮女金氏 6人目の後宮として従四品淑媛(スグォン)となる | |
1710 | 淑媛(スグォン)金氏 従一品(チョンイルプム:종1품) 貴人(クィイン:귀인)となる | |
1711(粛宗37)6.22 | 淑嬪崔氏を淑嬪房から 延礽君の居所へと移し、母子で暮らすよう御命を下す 42歳 | |
1711 | 第8回朝鮮通信使を派遣 | |
1712(粛宗38)2.12 | 延礽君出閣 王宮から私邸・彰義宮(チャンウィ グン:창의궁)に移る。 | |
1712 | 白頭山の山頂に定界碑を立て、国境線を確定する 北漢山城(プッカンサンソン:북한산성)を大々的に改築 南漢山城とともに、首都防衛の2大拠点にする |
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老論 | 1716 | 淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨) 病がち になる |
1717 | 大同法を黄海道で実施。これで全国に行き渡る。 | |
1718.3.9 | 淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)死去 享 年49歳 | |
1719 | 第9回朝鮮通信使を派遣 | |
1719 | 延齢君(ヨルリョングン:연령군)死去 享年21歳 | |
1720.6.8 | 粛宗崩御 在位45年10ヶ月 |
韓国歴史年表トンイ編 - 粛宗の家族構成
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