トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

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昭寧園 淑嬪最大のミステリーとは?

      2014/05/04

[ad#300-250]坡州・昭寧園(パジュ ソリョンウォン:파주 소령원)

淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)が眠るこの地は、伝統的に王族が眠り英祖(ヨンジョ:영조)も眠る東九陵(トングルン:동구릉)や、粛宗(スクチョン:숙종)の眠る西五陵(ソオルン:서오릉)周辺ではなく、北の坡州霊場里(パジュ ヨンジャンニ:파주영장리)に造営されました。

いったいなぜ、このような場所にぽつんと造営されたのでしょうか?

正直この事実を知って、紹介するのを躊躇しました。それほどの内容が朝鮮王朝実録に隠されていたのです。今まであまり語られることなく、また最大のミステリーとされていた昭寧園の位置の謎を紐解いていきます。

上の画像は陵(ヌン:능)の分布図です。主要なものは漢城府の北東と西北に集中しています。そして、漢城府から一番離れた北に昭寧園(ソリョンウォン)が、同じくらい離れた南東に禧嬪張氏墓(ヒビンチャンシミョ)があります。

禧嬪張氏墓(ヒビンチャンシミョ)大嬪墓(テビンミョ:대빈묘)とも呼ばれ、現在は西五陵(ソオルン)内にありますが、もともとは楊州(ヤンジュ)にありました。

けれど、その場所が不吉だということで1719年に粛宗は遷葬させ、ソウル中心部から南東に20km程離れた広州(クァンジュ)に移しました。 その墓は1969年からの現地の土地整備を理由に現在地に移されました。

上の図は粛宗の眠る西五陵(ソオルン)で、5つの陵が集まっています。粛宗仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)と一対となって眠っており、その左に第二継妃の仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ:인원왕후)が、更に左手の少し離れたところに最初の中殿(チュンジョン:중전)仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후)の陵があります。

一番左手には移設された禧嬪張氏墓もあります。

現状だけ見ると「禧嬪は粛宗の近くに眠っているのに、なんで淑嬪は離れた場所なの!」と立腹しそうなところですが、豪華さでは昭寧園(ソリョンウォン)のほうが圧倒的に上です。

 

さて、粛宗の後宮の中で嬪(ピン:빈)にまで昇りつめた女性は4名います。禧嬪(ヒビン)淑嬪(スクビン)は周知のとおりですが、他に寧嬪金氏(ヨンビンキムシ:영빈김씨)榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ:명빈박씨)がいます。この中で墓の位置が一番良かったのは榠嬪(ミョンビン)でした。

彼女については旧トンイ考の榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ) 粛宗最愛の王子を産んだ後宮をご覧いただくとわかります。

彼女の墓はかつて漢城府の中心から5kmほどのところにありました。(現在は移転)粛宗最愛の息子だったと言われる末っ子の延齢君(ヨルリョングン:연령군)がいつでも祭事を執り行えるよう、近くに祭ったのではないかと思われます。

他の嬪(ピン)については王族のものの中では一番格下の墓(ミョ:묘)ということもあり、それぞれ陵より一段離れた郊外に造営されています。

 

さて、昭寧園(ソリョンウォン)も当初は墓(ミョ)だったため、郊外に造営されたのは必然でした。淑嬪崔氏(スクビンチェシ)が亡くなった時には一介の嬪(ピン)の死に過ぎず、王の生母というわけではなかったのです。

そして、生前に出宮させたのと同様、墓の造営に際しても粛宗のつれない仕打ちが待ち受けていました。

まず、粛宗「王が喪服を着ていなければ、子も喪服を着ていられない。(だからお前も喪服を脱げ!)」と、言ってのけ、たったの5日で喪に服すことをやめてしまいました。

次に、造営地を決定する際に、禧嬪(ヒビン)の墓が移転される事となった場所や粛宗の姉妹が眠る場所近くを候補地に上げると、それにことごとく不快感を示し認めませんでした。

結局、延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)モク・ホリョン(목호룡)という風水師と二人で、昭寧園(ソリョンウォン)の場所を決めました。

これはいったいどういうことなのでしょうか?十数年会っていないかつての妾のことなどどうでも良かったのでしょうか?それとも、そのように振舞わなければならない理由があったのでしょうか?

 

粛宗芝居説

淑嬪崔氏(スクビンチェシ)が亡くなった1718年は粛宗の晩年に当たります。その前年、後継者問題に絡んで老論(ノロン:노론)左議政(チャイジョン:좌의정)李頤命(イ・イミョン:이이명)丁酉独対(チョンユドクデ:정유독대)という単独面会を行いました。

王への単独面会は禁止されていることで、この面会では世子を廃し延礽君(ヨニングン)延齢君(ヨルリョングン)を後継者に据える密談が行われたと言われています。

けれども、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の墓を移設する際には大々的な祭事を行ったにも関わらず、淑嬪崔氏(スクビンチェシ)の墓の造成には関心を示さなかったことから、後継者を明確にするために、あえて延礽君(ヨニングン)にこのような態度をとったと推察することができます。泣いて馬謖を斬る的処置です。

粛宗心のまま説

すでに淑嬪崔氏(スクビンチェシ)のことなどどうでも良いという心情になっていたため、心のままに振舞ったと推察できます。 史料をそのまま読むとこの説になります。

 

英祖は1753年(英祖29)に王権が安定したところで母の格を上げ、墓も昭寧園(ソリョンウォン)とし、墓碑1つしかなかった状態から陵(ヌン:능)と見紛う装飾を施しました。

けれど、王という高い地位が邪魔をし、即位後には直接訪れることができず、涙を流したと言われています。そんな英祖も母親孝行ができて嬉しかったことでしょう。

また、このことは、生前には反論などもってのほかだった父・粛宗に対しての小さな反抗だったような気もします。そして、本来ならば兄王・景宗(キョンジョン)の母・禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の墓も昇格させるのが道理なのですが、英祖には全くその気がありませんでした。

そんなところにも母のほうが格が上だという英祖の思いが伝わってきます。

第22代正祖(チョンジョ:정조) 李祘(イ・サン:이산)「あと10年長生きしていたら」とよく言われますが、淑嬪崔氏(スクビンチェシ)もあと10年長生きしていたら、息子の晴れ姿を見られたのにと思うと、残念でなりません。

当時としては平均的な寿命ですが、奇しくもこの曾祖母と曾孫は全く同じ49歳で亡くなっています。そして、この曾孫は曾祖母のような宮女出身の宜嬪成氏(ウィビンソンシ:의빈 성씨)を愛しました。偶然なのか歴史の悪戯なのか。ロマンを感じずに入られませんね!

 

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