トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦いはトンイ考の後続サイトです。韓国時代劇トンイについて歴史的背景などを考察します。

宗学とは?

      2019/01/16

粛宗(スクチョン:숙종)延礽君(ヨニングン)昑(クム)とトンイを宮廷に戻すための名分(ミョンブン)として利用したのが宗学(チョンハク:종학)です。

いったいどのような制度だったのでしょうか?

 

はじめたのは朝鮮第4代世宗(セジョン:세종:在位1418-1450)です。

朝鮮は儒教国家というイメージがありますが、国の創造は武力によって行われました。そのため、王族といっても儒教的素養の低さは否めませんでした。

そこで、王族=宗親(チョンチン:종친)に基本的な学力や素養を身につけさせるために、8歳以上の宗親が学ぶ宗学(チョンハク:종학)が1428(世宗10)に官庁が設置され制度化されました。

世子には別に書筵(ソヨン:서연)があるため、当然ながら世子以外の宗親が対象となります。

先生となったのは成均館(ソンギュングァン:성균관)の館員です。専従ではなく兼任でした。

世宗(セジョン)代では子女の首陽大君(スヤンデグン:수양대군)安平大君(アンピョンテグン:안평대군)宗学を受けています。

 

首陽大君と安平大君をモチーフにしたドラマ

不滅の恋人(原題:大君・テグン-愛を描く)

 

 

けれども、この制度には根本的に問題があり、活性化されることもこともなく、年代によってあったりなかったりしました。

というのも、王族は4~5代にわたって君号を授けられ不労所得を得ることができる存在だったからです。

臣下とは異なり、勉学による身分の向上がなく、遊んで暮らせるような身分だったため、根本的に学問に身が入らなかったのです。

また、不活性だったことを逆説的に説明すると、トンイでも描かれているとおり、資質の高い王族は本人が望まなくても謀反の際に神輿として担ぎ上げられたり、何かと因縁を付けられるため、資質のない事を装うことも必要でした。

 

このような宗学ですが、必要性を感じて復活させたのが、実は粛宗(スクチョン:숙종)だったのです。朝鮮王朝実録にも1676年(粛宗2)に再開するべく命を出したことが記載されています。

この時の再開が昑(クム)のためだったかというと、そんな事はありません。この時の粛宗は16歳です。粛宗の親戚などのために再開したのでした。

 

ところで、宗学開始年齢をさらりと「8歳以上」と書きましたが、ドラマ・トンイでは7歳になっていましたね。

ストーリーのつじつまを合わせるために前提条件を変更したのでしょうね。

 

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