トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦いはトンイ考の後続サイトです。韓国時代劇トンイについて歴史的背景などを考察します。

剣契(コムゲ)とは? トンイと粛宗の時代

      2013/10/13

[ad#300-250]トンイのドラマ内での設定は剣契(コムゲ:검계)の首領の子という設定ですね。

もちろん架空の設定ですが、この時代には実際に剣契(コムゲ)が活動していた時代です。

以前、旧トンイ考でも取り上げましたが、改めてドラマ・トンイと絡めて説明します。

 

剣契(コムゲ)の名が朝鮮王朝実録に出てくるのは1684年です。トンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)は1670年生まれですので15歳のころです。

朝鮮が建国以来上国と崇めていた中国の王朝明(みん)が1644年に、東夷と蔑んでいた女真族の王朝清(しん)によって滅ぼされ、明の遺臣の一部は台湾へ逃げていました。

朝鮮自体、1592~1598年の俗にいう秀吉による朝鮮出兵・壬辰倭乱(イムジンウェラン:임진왜란)と1636年に清に都城を攻められ屈服した丙子胡乱(ピョンジャホラン:병자호란)により、疲弊しきっていました。

そんな混沌とした状況下の1683年12月に対馬から一通の文が届きました。その内容は、台湾に逃れていた明の遺臣・鄭錦が朝鮮へ攻めてくるというものでした。

この事自体まったくの風聞だったのですが、数十年前の惨劇を身を持って覚えていたために、朝廷ともども市民もパニックを起こし、都城から逃げ出すものが続出しました。

 

これを機に、くすぶっていた無頼漢や不満分子達が殺掠契(サルリョクゲ:살략계) ・殺主契(サルジュゲ:살주계)・剣契(コムゲ:검계)などの徒党を組み、逃げ出す者たちを襲い金品を強奪したり、婦女子を襲ったり、両班(ヤンバン)を殺害したりしました。これを劍契殺主契事件(コムゲ・サルジュゲサゴン:검계·살주계사건)といいます。

ドラマ・トンイ内では圧政から賤民を解放する集団のように描かれていますが、実際には略奪・殺戮を行う者たちの集団でした。

 

粛宗の時代にはドラマにもなっている朝鮮三大盗賊の一人張吉山(チャン・ギルサン:장길산)も朝鮮北部で勢力を拡大していました。朝鮮王朝実録には1692年(粛宗18)と1696年に名前が出てきますが、結局捉えることはできませんでした。

ここで注視して欲しいのが1692年という年。トンイ第35話はちょうど同じ頃を描いています。

ドラマとしてのトンイは粛宗の治世に起きた大事件や人物が相当端折られていますが、史実を見ると、決して王朝文化が華やかな時代ではなく、混沌かつ殺伐としていた時代だったことがわかります。

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