トンイ考2 チャン・ヒビンとの戦い

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甲戌換局(カプスルファングク)の真実

      2013/10/27

[ad#300-250]甲戌換局(カプスルファングク:갑술환국)

1694年4月1日、粛宗(スクチョン:숙종)代の3大換局の一番最後のもので、南人(ナミン:남인)の党派としての運命が尽きた事件です。別名に甲戌獄事(カプスルオクサ:갑술옥사)や甲戌更化(カプスルキョンファ: 갑술경화)があります。

トンイ第37話では4月12日に教旨が下されましたが、これは史実です。ただ、ここのところの騰録類抄(トゥンノンユチョ:등록유초)が絡み始めて今回に至るまでの話は、事実関係も異なるし、主要事項が起きた年までがあべこべになっています。

では、実際にはどうだったのでしょうか?

 

まず、騰録類抄(トゥンノンユチョ)や国防機密などのくだりは全くのフィクションで、また、紅しょうがの原理を応用したトラップなども史実ではありません。

史実では、廃庶人となった仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)の復位運動がきっかけでした。

このころになると、肅宗はを仁顕王后を廃位したことに、後悔の念を抱いていました。そんなおり、復位運動を展開していた西人・老論(ソイン・ノロン:서인・노론)金春澤(キム・チュンテク:김춘택)をはじめ、西人・少論(ソイン・ソロン:서인・소론)らも含め数十名が逮捕され、拷問にかけられました。

※老論(ノロン)と少論(ソロン)の分裂は1680年からですが、今後、朝廷内での覇権争いが激化します。イ・サンに通じることですので、イ・サンファンの方は今後のドラマ内での描写を注視してください!

 

近年の中殿張氏の増長ぶりに嫌悪感を抱きつつあり、粛宗の気持ちが揺れていたところにこのような事件が起き、ついに粛宗は南人(ナミン)勢力の殲滅と仁顕王后の復位、張氏の嬪(ピン:빈)への降格を決断します。

この西人撲滅を指揮していた南人の領袖閔黯(ミンアム:민암)は賜死。その他の南人の主要人物はおおむね流刑となりました。

その後、政権の主要ポストを占めたのは、穏健派の西人・少論(ソイン・ソロン)です。強硬派の西人・老論(ソイン・ノロン)も1689年の己巳換局(キサファングク:기사환국)前の身分を回復しました。

このような過程で復位した仁顕王后をはじめ、復位運動の実動部隊の金春澤(キム・チュンテク:김춘택)ら西人・老論(ソイン・ノロン)のスポークスマンとなったのが、まさにトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)でした。

 

ドラマではあべこべになっていると言いましたが、1693年の時点で従4品淑媛(スグォン:숙원)となり、最初の息子・永壽(ヨンス:영수)王子も生んでいます。

このことからもわかるように、粛宗のトンイへの寵愛と換局は密接にリンクしており、トンイが国の反映を約束する子を産めるオプションとして、とても重要なファクターとなっているのです。

[ad#336-280]けれども、ドラマトンイではそこのところがうまく描かれてないような気がします。

次の第38話ではあべこべのつじつま合わせが色々と起きますが、本来は換局前の出来事です。

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