仁元王后は延礽君(ヨニングン)昑(クム)の母?
2014/04/06
[ad#300-250]仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ:인원왕후)
まず表記ですがフリガナを二種類つけました。
日本語に比較的近いといっても韓国語も外国語で、音節の種類も日本語に比べて圧倒的に多い言語です。仁元王后についても漢字を一文字づつ発音すると「イン・ウォン」となるのですが、周知のように韓国語には連音化があります。
NHKは「イヌォン」を採用しましたが「イノン」も比較的多く使う表記であるため、両方とも記載することにしました。
ちなみに「1万ウォン(1만원)」を発音する時と同じ連音化です。テキストによって「マノン」と「マヌォン」どちらの例もありますよね!
さて、本題です。
仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ:인원왕후) 1687(粛宗13)∼1757(英祖33)
1661年生まれの粛宗(スクチョン:숙종)とは26歳、1670年生まれのトンイこと淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)とは17歳違いです。彼女が粛宗の第2継妃(ケビ)となったのは仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)が亡くなった1701年8月14日から約1年後の1702年10月13日です。
粛宗40歳、淑嬪崔氏31歳、仁元王后15歳、世子・昀(ユン:윤)14歳、延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)8歳です。このことからもわかるように2人の王子とは兄弟姉妹といっていい年齢でした。
ここで「あれ?」と思った人が多いと思います。それぞれの年齢から考えても、ドラマ・トンイで描かれているような強硬に延礽君を婚姻させるようなことを、入宮してまもない中殿(チュンジョン:중전)がやりそうにないですよね?史実での延礽君の婚姻はもう少し先の話です。
朝鮮王朝実録を見ると、1704年(粛宗30)2月21日の記録に下記のようにあります。
延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)が進士・徐宗悌(ソ・ジョンジェ)の娘を娶った。
このとき延礽君は11歳でした。進士(チンサ:진사)とは科挙の小科(ソグァ:소과)のうち文学的な進士試を及第した人を言います。経典中心の生員(センウォン:생원)とともに、次の大科(テグァ:대과)を受ける資格を持ちます。ソ・ジョンジェは実在の人物で延礽君の舅です。
1707年(粛宗33)8月29日、結婚して3年後にようやく家を買い与えろとの御命が下されます。けれども、すんなりとは決まりません。買おうとした物件が買えなかったり、金額的に折り合いがつかず臣下にたしなめられたりしました。
実録ではその後の足取りがつかめないため、現在の秘書日誌にあたる承政院日記(スンジョンウォンイルギ:승정원일기)をチェックしてみました。
すると、1710年10月10日の記述に前主簿(チュブ)鄭繼一(チェ・ゲイル) の家を3934両7銭4分で買い与えたとありました。けれどこの後もすぐに出閣せず、結局1712年(粛宗38)2月12日に景福宮(キョンボックン)の左手に位置する彰義宮(チャンウィグン:창의궁)に移り住みました。延礽君はすでに19歳になっていました。
ここには通義洞白松(トンウィドン ペクソン:통의동백송)という1690年ごろから生えている白松がありました。かつては天然記念物だったものの、1990年に折れてしまいました。
ドラマ・トンイではチョンスに脅されたチャン・ムヨルが第11代中宗(チュンジョン:중종)の子・福城君(ポクソングン복성군)の例を出して、結婚後の王子が宮廷内に残る名分としていました。ドラマ女人天下で中宗を演じていたのはまさにチャン・ムヨル役のチェ・ジョンファンでした。韓国ドラマではこの手の手法をよく使いますね!
話を元に戻して、ここまで出閣が遅くなったのは、史実では延礽君(ヨニングン)を宮廷内に残すことで、老論(ノロン:노론)が少論(ソロン:소론)を牽制するためだったのではないかと思われます。記録を見るとかなりのらりくらりとしています。
※謎がとけましたので韓国歴史年表トンイ編の記述を変更しました。
仁元王后は延礽君(ヨニングン)昑(クム)の母?
さて、後年、延礽君(ヨニングン)は仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ)の養子となります。ドラマ内でトンイは2人とも王にすると言っていますが、これは史実がわかった上でのこじつけで、当時は世子に子を設けることができないなんて誰もわからなかったのです。
世子は予定通り粛宗の死後王になりましたが、老論(ノロン:노론)の圧力と仁元王后の強力なバックアップもあり延礽君(ヨニングン)を王位継承者である世弟(セジェ:세제)にせざるを得ませんでした。この時点で王統の正当性を持たせるために延礽君(ヨニングン)は仁元王后の養子とされました。
世子昀(ユン:윤)が仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)の養子になっているのも上記の理由のためです。決して王后の気まぐれや策略で養子にしたわけではないのです。ここはけっこう勘違いしやすいところですので注意が必要です。
仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ)の家門はもともと少論(ソロン)なのですが、粛宗の死後は老論(ノロン)に党色を変えています。そして、彼女が大妃(テビ)として存在していたからこそ、延礽君(ヨニングン)は生き長らえることもでき、王となることもできたのでした。
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