西人の分裂 老論と少論、懐尼是非(フェニシビ)
2012/12/21
[ad#300-250]ドラマ・トンイでは老論(ノロン:노론)と少論(ソロン:소론)の区別なく西人(ソイン:서인)として漠然とストーリーを展開していますが、1683年以降は明確に両者は分裂しています。
今後の展開とドラマ イ・サンにも関わる非常に重要な転機なので、改めて西人(ソイン:서인)の分裂について記述していきます。
粛宗(スクチョン:숙종)の治世では3大換局(ファングク:환국)といわれる朝廷の主流派をそっくり入れ替える手法がとられました。
1689年の2番目の換局・己巳換局(キサファングク:기사환국)では仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)が廃妃となったので、覚えている方も多いのではないでしょうか?この時は西人(ソイン)から南人(ナミン:남인)に主導権が移りました。
ということはそれ以前は西人(ソイン)が主導権を握っていたわけで、今からお話する最初の換局が西人(ソイン)の分裂において重大な転換点となります。
庚申換局(キョンシンファングク:경신환국)
1680年に起こった、南人(ナミン)が排除され西人(ソイン)が主流派にのし上がった換局です。もともと南人の横暴をよしとしていなかった粛宗は、南人で領議政の許積(ホ・ジョク:허적)が宮廷のテントのようなものを勝手に使用した油幄濫用事件(ユアクナミョンサゴン:유악남용 사건)を口実に、南人の要職者を交代させました。
その数日後、彼の庶子・許堅(ホ・ギョン:허견)が謀反を企てていることが発覚し、南人は権力の中枢から排除され、許積(ホ・ジョク)達は処刑されます。
分裂への道程
権力を手にした西人(ソイン)ですが、失墜した南人(ナミン)の処遇に対して、強硬派と穏健派にわかれます。強硬派は老壮派と言われる原理的な年長者で形成されました。対して穏健派は少壮派と言われる革新的な若年者で形成されました。
1682年(1683年とも)、南人の徹底的な排除を主張した金益勳(キム・イクフン:김익훈)に対して穏健派の韓泰東(ハン・テドン:한태동)達は弾劾上訴を提出しました。このとき老壮派の長で朱子学の大家宋時烈(ソン・シヨル:송시열)はもちろん金益勳を擁護し、不和となっていた宋時烈の弟子の尹拯(ユン・ジョン:윤증)達との亀裂は修復不可能なものとなりました。
1683年、第17代孝宗(ヒョジョン:효종)の格を上げるべきとの宋時烈の上訴への反対が決定機となり、遂に西人(ソイン)は老論(ノロン)と少論(ソロン)に完全分裂することとなりました。
上記からもわかるように、1680年から1689年までのドラマ・トンイでの西人とは、主導権を握った老論(ノロン:노론)のことを指します。
懐尼是非(フェニシビ:회니시비)
西人の分裂に関しては、先述のように原理主義者宋時烈(ソン・シヨル)と、弟子で思想のみならず派閥をも分かつこととなった尹拯(ユン・ジュン:윤증:1629- 1714)との不和が挙げられます。懐尼是非が事件のように説明されていることがありますが、これ自体は思想的対立で事件ではありません。
そもそもの契機となったのは1669年の尹拯(ユン・ジュン)の父・尹宣擧(ユン・ソンゴ:윤선거)の死です。
このとき、原理主義者の宋時烈(ソン・シヨル)としては許されない革新的な思想を持った尹鑴(ユン・ヒュ윤휴)が弔問の祭文を送ってきている事に気づいたため、尹家に対して懐疑心を持ちます。
尹拯(ユン・ジュン)は墓碣銘(墓碑に刻む言葉)を宋時烈(ソン・シヨル)に頼み、1674年に入り宋時烈は文を贈りました。けれどもその文に不満のあった尹拯は訂正を求めますが、宋時烈は訂正に応じませんでした。そして1681年、ついには尹拯が絶縁状とも言える辛酉擬書(シンユウィソ:신유의서)を用意します。送ることを取りやめたものの、宋時烈の孫の娘婿が書き写し伝えたことによって発覚し、決裂が決定的なものとなりました。
尹拯(ユン・ジュン)は名分論の限界を感じ、南人も含め派閥を越えた学問的交流を持ったため、朱子学の原理主義者の宋時烈と対立することになったのです。
これが老論(ノロン:노론)と少論(ソロン:소론)にも飛び火し、最終的には権力闘争にまで至りました。
このことを懐尼是非(フェニシビ)というのは二人の居住地が忠清南道論山だったことに由来します。宋時烈(ソン・シヨル)は 懷德(フェドク:회덕)、尹拯(ユン・ジュン)は尼城(イサン:이성)に居所があったため、その頭文字をとって名付けられました。
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