王女の男 第5回 敬恵公主の婚礼の真実とは?
2012/11/26
王女の男(原題:公主の男:コンジュエ ナムジャ:공주의 남자)第5話。
敬惠公主(キョンヘコンジュ:경혜공주)の婚礼がありました。
けれども、王女の男は時代考証がかなり曖昧ということもあって、婚礼に絡むストーリーのほとんどが真実ではありません。
そのため、スンユが王女の婿・駙馬(プマ:부마)候補だったこともありません。歴史的事実はスンユとミョンの友人という設定の鄭悰(チョン・ジョン: 정종)が実際に駙馬(プマ)となったことだけです。
それでは、真実はどうだったのでしょうか?結構びっくりするかもしれません!
敬惠公主(キョンヘコンジュ)が婚姻したのは1450年(世宗32)1月24日で15歳の時です。このとき、彼女は敬惠公主ではなく、平昌郡主(ピョンチャン クンジュ:평창 군주)でした。郡主というのは世子(セジャ)の嫡出女子の号です。
どういうことかというと、彼女が結婚した当時は第4代世宗(セジョン)が存命で、文宗(ムンジョン)はまだ世子だったのです。ドラマ内では文宗の死が迫っていたために婚姻を急ぎましたが、史実では文宗の父・世宗の死が迫ったため、3年喪により結婚できない期間ができることを避け、急ぎ婚礼を行ったのです。事実、世宗は約一ヶ月後の2月17日に亡くなりました。
15歳という年齢は王族の婚姻にしてはかなり遅い方です。最も有力な学説では、当時から文宗の体調が芳しくなく、また妻もいなかったことから、あまりにも父が心配で婚姻できなかったのではないかといわれています。
ちなみに、世子の庶出の女子は縣主(ヒョンジュ:현주)といいます。現代日本の県>郡とは格が逆になりますので注意してください。
公主(コンジュ:공주)は王の嫡出女子で、翁主(オンジュ:옹주)は王の庶出女子というのは周知かと思われますが、平昌郡主(ピョンチャン クンジュ)が敬惠公主(キョンヘコンジュ)となったのは、父が王として即位してからということになります。
公主(コンジュ)の結婚式のことを嘉礼/嘉禮(カレ:가례)というのですが、ドラマ内では吉礼(キルレ:길례)と言う言葉を多用していました。吉礼は公式な儀式のことをいい、郡主などの結婚式も吉礼と呼ばれます。
公主の結婚式なのに嘉礼と言わなかったところをみると、言葉選びに苦肉の策が見て取れますね!
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