韓国歴史ヒストリア

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王女の男 第3回 首陽によるシン・スクチュ懐柔の史実は?

      2012/11/26

王女の男(原題:公主の男:コンジュエ ナムジャ:공주의 남자)第3話。

セリョンの正体がついにバレ、キム・スンユシン・ミンチョン・ジョン、敬惠公主(キョンヘコンジュ)たちとの3角関係とも5角関係とも取れる複雑な関係が顕になってきました。

ところで、キム・スンユは一般的には金承琉(김승유 )という漢字で知られていますが、ドラマ内では金承柔という字を使用していましたね。こちらでも読みは全く同じです。

今回、首陽大君(スヤンテグン:수양대군)集賢殿(チピョンジョン:집현전)申叔舟(シン・スクチュ:신숙주)を懐柔すべく、自宅に招くのですが、史実では異なります。もちろん、息子のミンを招くこともありません。彼については特集を組む予定ですが、あまりに文字数が増えそうなので、今回は首陽申叔舟を自陣に引き入れた経緯だけをお話します。

首陽の取り巻きには特に有名な3人がいます。権覧(クォン・ラム:권람)韓明澮(ハン・ミョンフェ:한명회)そして申叔舟(シン・スクチュ)です。紹介した順に首陽の取り巻きになっていくのですが、申叔舟は他の二人と異なり、当時からその博識で名を轟かせていた人物です。

もちろん、他の二人も優秀だったのですが、天才と大天才の差、トップとそれ未満の差というのは、実際の差以上に尾ひれが付き喧伝されるものです。例えば日本一高い富士山を知っていても、2番めに高い山はほとんどの人が知らないのと同じです。

さて、彼をどのようなタイミングで懐柔したのかは、以前も紹介していますので、そっくりそのまま引用します。

●1452年9月以降、顧命大臣(コミョンデシン)から危険人物とみなされていた首陽大君(スヤンデグン)は、その疑惑を避けるために、自ら誥命謝恩使(コミョンサウンサ:고명사은사)を買って出ます。誥命とは上国(当時は明)の皇帝から正式に王として冊封を受けることで、その礼として謝恩使を出すのがならわしでした。

朝鮮から一時的に離れることで、疑惑を払拭したのです。このとき書状官(ソジャングァン:서장관)として同行した集賢殿(チッピョンジョン)出身の優秀な官吏だった申叔舟(シン・スクチュ:신숙주)と親交を深め、自陣に引き入れます。●

ドラマでは娘と息子との婚姻により縁を深める手法をとった首陽ですが、実際には寝食を共にする長旅の間に、関係を構築していったのです。

ただし、忘れてはならないのは、知識の泉であり王立の諮問機関といっても良い集賢殿(チピョンジョン)で、首陽申叔舟も若い頃から交流があったということです。彼ら二人は1417年生まれの同い年で、首陽も若い頃から父王の世宗(セジョン)とともに集賢殿に出入りしており、申叔舟もまた20代前半で科挙に合格してすぐ集賢殿に入っているため、互いに旧知の仲だったのです。

この旅での申叔舟(シン・スクチュ)の役目は書状官ですが、これは文章に秀でた者が付く臨時の役職でした。この時代の日中朝は通訳官がいない場合でも漢字による筆談で大体の意思の疎通ができました。そんな時には、彼のように文才のある者が重宝されるのです。

彼の場合には文才だけでなく、多言語を操ることができました。実は日本にも同様の役目で来ており、日本語も話せたといいます。(後日詳しく紹介します)

王位の簒奪を行い未だに王名より大君(テグン)としての名のほうが有名な首陽(スヤン)ですが、この大天才を自陣に引き入れたことで、人物像の悪評に反して治世における評価はかなり良いものとなりました。

ちなみに、多くのドラマでは申叔舟(シン・スクチュ)泛翁(ボモン:범옹)と呼んでいます。これは彼の号で、当時も親しい間柄では号で呼び合っていたのです。

王女の男だけを見るとなかなか関係性の詳細まではわからないし、韓国史における個人のポジションがどのレベルなものかもわかりませんね。けれど、彼が歴史上でも相当な有名人であることだけでも覚えておけば、ドラマを見進めて行く上で一助になるのではないかと思います。

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