韓国歴史ヒストリア

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キム・ジョンソ

      2012/11/26

金宗瑞(キム・ジョンソ:김종서, 1383~1453)

今回、ドラマ・王女の男の準主役キャラとして登場することで、再びクローズアップされましたが、かつてドラマ・大王世宗や王と妃にも登場しています。朝廷の重臣で、第4代世宗(セジョン:세종)第5代文宗(ムンジョン:문종)第6代端宗(タンジョン:단종)に仕えました。

彼は一体どんな人だったのでしょうか?

 

本貫・順天(スンチョン:순천)、字は國卿(クッキョン:국경)、 号は節齋(チョルジェ:절재)

祖父は持平の台泳、父は都摠制の錘、母は大司憲・裵規の娘。

武官の息子でしたが、わずか16歳で科挙に合格しています。もっとも、王朝初期で混乱期だったため人材の補充が急務だったということもありますが、その才が高かったことは疑いの余地がありません。一世代下の秀才・鄭麟趾(チョン・インジ:정인지)でも19歳での合格ですので、金宗瑞(キム・ジョンソ)の秀才ぶりがわかると思います。

ただし、任官したのは1405年(太宗5)の文科及第後です。

 

1419年(世宗1)に司諫院右正言(サガンウォン ウジョンオン:사간원우정언)となり、 持平(チッピョン:지평)·執義(チビ:집의)·  右副代言(ウブデオン:우부대언 )を歴任しました。その後は各地方の調査なども行いました。

1433年12月、世宗の信任も厚い金宗瑞(キム・ジョンソ)は、咸吉道都観察使(ハムギルド トグァンチャルサ함길도 도관찰사)となり、太祖(テジョ:태조)李成桂(イ・ソンゲ:이성계)の出身地・咸吉道の平定に向かいます。現在の北朝鮮の北部です。

この地は女真族の侵入を度々許しており、そこに6つの城・六鎮(ユクジン:육진)を切り開いて、わずか7・8年で豆満江(トゥマンガン)を国境線で確定するのに大きな功労をたてました。

 

1445年、忠清(チュンチョン충청)・全羅(チョルラ전라)・慶尚(경상)3道の都巡察使(トスンチャルサ:도순찰사)となりました。

1446年、議政府(ウィジョンブ)の右賛成(ウチャンソン:우찬성)に任命されて判礼曹事を兼ね、柵堡などを管理しました。

1449年、遼東(ヨドン)がタタールにより騒がしくなると、 平安道都節制使(ピョンアンド トジャルジェサ:평안도도절제사)となりました。

文官ながら特に武の才もあり、国防に関する要職を歴任しているのが、金宗瑞(キム・ジョンソ)の特徴です。

 

1451年(文宗1)、左贊成(チャチャンソン:좌찬성)兼・知春秋館事(チチュンチュグァンサ:지춘추관사)として「高麗史」を撰進しました。

同年10月右議政(ウイジョン)になりました。

1452年、「世宗実録(セジョンシルロク:세종실록)」 編纂の監修を行い、「高麗史節要(コリョサジョルヨ:고려사절요)」を編纂しました。これは、編年体も必要との金宗瑞(キム・ジョンソ)の直言により編纂が決定されたものです。

1452年(端宗即位年)、左議政(チャイジョン)になって、12歳という幼い年齢で即位した端宗を補佐していましたが、翌年の1453年10月10日、首陽大君(スヤンテグン:수양대군)に長男と共に殺害されました。癸酉靖難(ケユジョンナン:계유정난)

 

六鎮の開拓一つをとっても、朝鮮王朝初期の臣下としては著しい功績を残した功臣といえます。けれども、敵対した首陽大君がのちの主導権を握ることで大逆罪人とされました。

中国・明王朝の使節団から独断の嫌いがあると指摘されたエピソードも残っていますが、文武に長けており、司憲府(サホンブ)や司諌院(サガンウォン)などを歴任していることからも、公明正大であったことが見て取れます。

また、当時の知識の集積機関だった集賢殿(チピョンジョン:집현전)の一員でないにもかかわらず、高麗史の執筆と校閲を担った唯一の人だったことからも、その知力の高さが伺えます。

 

端宗が即位したのち、議政府署事制(ウィジョンブソサジェ:의정부서사제)の下での議政府の大臣たちの権限ほ、王権をも圧倒するほど強力でした。そのうえ、文宗逝去の折、その遺言である顧命(고명)を承った皇甫仁(ファンボ・イン:황보 인)金宗瑞(キム・ジョンソ)などの顧命大臣(コミョンデシン:고명대신)には、端宗の補佐という名分(ミョンブン)が加わりました。

特に、金宗瑞(キム・ジョンソ)の文武に長けた威勢は大虎(テホ:대호)とうたわれ、並ぶもののない権勢を誇っていました。古今に相対する双璧を「龍虎」といいますが、まさに金宗瑞(キム・ジョンソ)は虎であり、さらには大虎だったのです。

 

首陽大君(スヤンテグン)が野望を実現するためには金宗瑞(キム・ジョンソ)の排除は必然で、結局、癸酉靖難(ケユジョンナン:계유정난)が起きました。

 その後1678年(粛宗4)には金宗瑞(キム・ジョンソ)の子孫が登用され、1746年(英祖22)には忠臣としておよそ300年ぶりに復権されました。

諡号は忠翼(チュンイク:충익)です。

 

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