李藝(イ・イェ) 最初の朝鮮通信使
2019/08/20
『最初の朝鮮通信使 李藝(イ・イェ)』
韓国時代劇ファンでも聞いたことがない名前かもしれません。近々映画が封切られるということもあり、原作本を読んでみました。
映画自体はドキュメンタリーで、太王四神記でヨン・ホゲを演じたユン・テヨン(윤태영)が主演です。
この本は史料ではなく小説です。
そのためか噛み砕きすぎるきらいはありますが、小学生の読書感想文の題材にしたら良いような読みやすさです。
内容の割に高価ですので、近所の図書館などで借りるほうがベターかもしれません。
李藝(イ・イェ:이예:1373-1445)とはどういった人物だったのでしょうか?
データは下記のとおりです。
- 出身地:蔚山(ウルサン:울산)
- 本貫:鶴城(ハクソン:학성:鶴城李氏)
- 最終官職:従2品・同知中樞院事(トンジジュンチュウォンサ:동지중추원사)
- 号(호):鶴坡(ハクパ:ハッパ:학파)
- 諡号(シホ:시호):忠肅(チュンスク:충숙)
年代からもわかるように、生まれた時の半島の王朝は高麗(コリョ:고려)で恭愍王(コンミンワン:공민왕)22年です。没年は朝鮮第4代世宗(セジョン:세종)27年です。
高麗末期、国力が弱まっている時には外敵の侵入をたやすく許してしまうのが常ですが、まさに倭寇(わこう:ウェグ:왜구)が暗躍する時代でした。
李藝(イ・イェ)は8歳の時に母を倭寇に拉致されます。母を探し出そうとの思いもあり、朝鮮と日本との間を生涯で40回以上往来し、述べ667人の拉致された朝鮮人を本国に送り返した人物です。そして、朝鮮通信使の先駆けとなった人物でもありました。
近年のように日帰り高速船があるわけでもなく、季節風に乗って往来していたため、40回以上の渡航歴があるということで、その生涯を外交に当てたことがわかると思います。
私たちは、これら朝鮮の外交使節を一般に『朝鮮通信使』といっています。通信とは『信(よしみ)を通ずる』という意です。
けれど、朝鮮通信使という名称は学術用語であり、、本来は単に通信使(トンシンサ:통신사)と呼ばれていました。
また、初期には名称が統一されておらず、1413年に派遣しようとしたものが通信使の最初でしたが、この時には正使が病となり中断されたために、1428~1429年に派遣したものが通信使として初めて日本に到着しました。
それまでは、報聘使(ポビンサ:보빙사)、回禮使(フェレサ회례사) 、回禮官(フェレグァン:회례관)、通信官(トンシングァン:통신관)、敬差官(キョンチャグァン:경차관)などの名称が使われています。(江戸期の1~3回は回答兼刷還使:フェダプキョムセファンサ:회답겸쇄환사)
李藝(イ・イェ)の特筆する成果は晩年の1443年(世宗25)に、自身が主導して締結した癸亥約條/癸亥約条(ケヘヤクジョ:계해약조)です。
歳遣船(セギョンソン:세견선)を50隻に限定するなど、朝鮮との貿易の管理を対馬島主に集約させ米を支給することで、生活の困窮からやむを得ず倭寇になる諸島民の不満を抑えた条約です。
この交渉の正使は彼ではなく卞孝文(ピョン・ヒョムン:변효문)でしたが、同時期に朝鮮人の刷還のために派遣されていた李藝(イ・イェ)の影響が大きかったと言われています。
また、通信使の記官として本土から帰国の途にあった申叔舟(シン・スクチュ:신숙주)は、直接の担当ではなかったものの、当主に客観的な利点をあげ、交渉締結に寄与しました。
朝鮮王朝実録を調べてみると、太祖(テジョ:태조)李成桂(イ・ソンゲ:이성계)から世宗(セジョン)代の60年間には計184回の倭寇の襲来があったものの、約条締結後の1444年以降には、その襲来がピタリと止まっています。
もちろん、朝鮮が国としての体裁を整える過程で国力が増大していったことにもよりますが、癸亥約條により朝鮮への渡航をシステム化したことの功も大きいと言えます。
朝鮮王朝実録1445年(世宗27)2月23日の記事に、彼が亡くなったこと、そして、母の拉致、朝鮮の民の刷還などの彼の生涯が記述されています。
また、1443年(世宗25)6月22日、対馬への最後の渡航を世宗(セジョン)に直訴した時のことを記した記事に、71歳の老躯を押して国のために仕事をするという李藝(イ・イェ)に対して、今までの功も小さくないのにと、その志を称賛し、衣服7着に紗帽(サモ)を下賜したとあります。
世宗(セジョン)にとっても得がたい臣下だったことは言うまでもなく、また、当時の日本海に平和をもたらした功は評価に値します。
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