宋時烈(ソン・シヨル)と不娶同姓
2017/07/05
宋時烈(ソン・シヨル:송시열)1607(宣祖40)〜1689(粛宗15)は、第16代仁祖(インジョ:인조)・第17代孝宗(ヒョジョン:효종)・第18代顕宗(ヒョンジョン:현종)・第19代粛宗(スクチョン:숙종)の4王に仕えた朝鮮王朝後期の儒学の大家で、朝鮮では孔子や朱子のように、唯一宋子と「子」の字がつく。
それだけ、大家として認められている。
その彼が、近年まで影響を及ぼしていたことがある。それが、同姓同本不婚(トンソンドンボンブルホン:동성동본불혼)だ。
同じ姓(ソン:성)で同じ本貫(ポングァン:본관)の者どうしは結婚出来ないという、近代では韓国だけにしかなかった特殊な民法だ。
ただ、誤解してはならないのは、宋時烈(ソンシヨル)の独自案ではなく、儒教的イデオロギーであることだ。
あたかも彼がこのルールを作ったかのような記述が多いが、決してそうではない。
以下に変遷を説明しよう。
不娶同姓の変遷
1392年に建国された朝鮮は、前王朝の高麗とは異なり、仏教ではなく儒教を国教とした。
特に儒教の中興の祖・朱子が体系付けた朱子学を採用した。
また、明の律令である明律(ミョンニュル:명률)は朝鮮王朝においても国家の礎となった。
儒教の流入の過程で、高麗後期には徐々にではあるが中華的な不娶同姓(プルチュィドンソン:불취동성)の概念も広がっていき、朝鮮において明律を採用したことにより、その規定の一つである不娶同姓が慣習法として定着していった。
宋時烈(ソン・シヨル)は朱子に傾倒していたが、朝鮮儒教の大家である栗谷・李珥(ユルゴク・イイ:율곡・이이) にも傾倒していた。
その栗谷も当然ながら不娶同姓を説いていた。
しかし、宋時烈(ソン・シヨル)はより厳格に適用するよう提案し、顕宗(ヒョンジョン)はそれを受け入れた。1669年1月4日(顕宗10/康熙8)のことだ。朝鮮王朝実録には以下のように記されている。
時烈又曰: “娶妻不娶同姓者, 乃古禮也。 國俗雖同姓字而異貫者, 則不避嫁娶, 事甚無謂。 請自今禁斷。” 上從之。
要するに、 「同じ姓の者と結婚しないのは古来からの礼の規律です。本貫が違えば結婚していますが、それは全く思わしくないことです。直ちに禁止してください。」 と述べ、王はこれに従ったのだ。
この法は近代においても踏襲され、1960年に大韓民国民法809条に同姓同本不婚(トンソンドンボンブルホン:동성동본불혼)として採用されている。
ただし、同姓同本の婚姻者の救済のための時限立法が、1990年代に何度か可決されており、1997年には憲法裁判所による違憲判決も出た。
そして、1999年以降は民法809条は無効となり、同姓同本であっても婚姻できることになった。(最終的には2005年の民法改正により、3月31日に廃止)
しかし、新たなルールでも父系で8親等・母系で6親等以内は婚姻できないというように、日本に比べると厳しい。
長年培ってきた慣習が、近代にも息づいている例といえよう。
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