淑嬪崔氏(スクビンチェシ)
2013/09/07
淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨) イ・ビョンフン監督ドラマ・トンイで、そのシンデレラ・ストーリーが注目を浴びていますが、彼女は一体どんな女性だったのか。
1670に生まれ1718年に没する。第19大朝鮮王粛宗(スクチョン:숙종)の後宮(フグン:후궁)で第21代朝鮮王英祖(ヨンジョ:영조)の生母だ。 本貫は海州(ヘジュ:해주) 後年、領議政(ヨンイジョン:영의정)を追贈された崔孝元(チェ・ヒョウォン:최효원)の娘。 確かな記録がなく、宮廷内の下働きムスリ(무수리)だったとされていたが、最近の学説では粛宗2年に7歳で入宮したとされている。
兄弟は姉と兄がおり、3歳で父を5歳で母を亡くした。兄の婚姻も確認されている。 これらは父である崔孝元(チェ・ヒョウォン:최효원)の墓標(묘표)に記されているので、公式記録と言って良い。
1689年、仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)が廃庶人(ペソイン:폐서인)となり禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)が中殿(チュンジョン:중전:王妃)となる。
1692年4月22日以降、仁顕王后の誕生日4/23の1日前に、王后の誕生日を秘密裏に祝っていたところ、夜歩きをしていた粛宗(スクチョン:숙종)と出会い、後日、承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)となる。
1693年4月、従4品淑媛(スグォン:숙원)となる。 同年10月6日、最初の息子・永壽(ヨンス:영수)王子を産むが、わずか2ヶ月で夭折した。 1694年、仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)が4月12日に復位したのち、6月2日に従2品(チョンイプム:종2품) 淑儀(スグィ:숙의)となる。
9月13日、王子・昑(クム:금)のちの延礽君(ヨニングン:연잉군)を産む。 彼がのちの第21代王英祖(ヨンジョ:영조)となる。
その後、1695年(粛宗21)6月8日、従一品(チョンイルプム:종1품) 貴人(クィイン:귀인)となる。
1698年(粛宗24)7月7日にも子を生んだが、3日で夭折する。
1699年(粛宗25)6月13日に、前年復位した第6代朝鮮王端宗(タンジョン:단종)祝賀して正1品淑嬪(スクビン:숙빈)となる。
仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)とは親交があった。
昨今の有力説では崔氏(チェシ:최씨)は、針房(チムバン:침방)の内人から中殿(チュンジョン:중전)付きになったと言われている。
一方、禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)からは執拗ないじめにあったと言われている。
1701年8月14日、仁顕王后が病没し、その後の10月10日に禧嬪張氏が賜死となる。内命婦の序列1位となったが、10月7日に粛宗が、嬪御(ビノ:빈어)は后妃(フビ:후비)に昇格することを禁ずるとの法を定めたために、中殿になることはなく、新たな中殿が迎えられる。
1701年10月から1704年4月のある時点で、本宮の昌徳宮(チャンドックン)を離れて、梨峴宮(イヒョングン:이현궁)に居所を移す。梨峴宮は淑嬪房(スクビンバン:숙빈방)と呼ばれるようになる。
1711年(粛宗37)6月22日、粛宗は淑嬪崔氏を淑嬪房から息子・延礽君(ヨニングン)の居所へと移し、母子で暮らすよう御命を下す。
このとき淑嬪崔氏は42歳。延礽君が淑嬪房を利用した記録があるため、逆の可能性もある。
1716年ごろから急に病がちになり、粛宗の勧めもあり私邸で療養していたが、 1718年3月、淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)は息子・延礽君(ヨニングン:연잉군)の私邸で49年の生涯に幕を閉じた。
京畿道坡州市にある昭寧園(ソリョンウォン:소령원)に眠る。英祖(ヨンジョ)は和敬(ファギョン:화경)という諡号を贈った。
後に徽德安純綏福(フィドクアンスンスボク:휘덕안순수복)という尊号を贈った。
名は体を表すというが、「淑」の字を送られた崔氏は、温厚で人柄が良かったと言われている。嬪(ピン:빈)に名をつける際には、性格か容姿どちらかをもとにする。まさに噂通りであったに違いない。
また、特筆すべきは、王の生母としては最も出自の低い女性であるが、その後、第25代哲宗(チョルジョン)までその血が保たれたことにある。
韓国時代劇トンイについては、解説&考察サイト・トンイ考や新トンイ考、韓国歴史年表トンイ編を参照してほしい。
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