チャン・ヒビン1
2013/09/07
チャン・ヒビンとは朝鮮王朝第19代粛宗(スクチョン:숙종)の側室『嬪(ピン:빈)』の一人。
俗に張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)と呼ばれているが、正しくは禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)。 チャン・ヒビンとは張家(チャンガ)の禧嬪という意。
※本来、嬪に冊封されるまではこの名前ではないのだが、便宜上彼女を表す名として、以下にも使用する。
本名は張玉貞(チャン・オクチョン:장옥정)という。諡号は「大嬪宮玉山府大嬪」 本貫(ポンガン:본관)は仁同(インドン:인동) 訳官の張炯(チャン・ヒョン:장형)/張烱(チャン・ギョン:장경)の娘。
キム・ヘス演じるチャン・ヒビン
生誕年は1659年説と1662年説とがある。没年は1701年10月10日。
夫となる粛宗が1661年生まれであるため、1659年説だと姉さん女房となる。
過去の通説では、母の尹氏(ユンシ:윤씨)は趙師錫(チョ・サソク:조사석:最高位左議政)の実家の女婢であったとされ、粛宗実録にも記載されている。
そのため、チャン・ヒビンも正妻ではなく妾の子とされていた。
けれども、母は正妻として後妻に入っているため、どこかのタイミングで免賤された可能性が高い。
それゆえ、チャン・ヒビンも妾の子ではなく中人(チュンイン)とされる。
入宮時期 Wikipedia には 『南人派は1687年(粛宗12年)に「美貌に秀でた」張氏を後宮に送りこんだ』 とあるが、これは誤りで、実際には幼少のころに入宮していると思われる。
その後、一度宮廷を追われたものの、1686年に再入宮している。
父はチャン・ヒビンが10歳で死去。そのため家が没落し、末っ子である彼女は入宮した説もある。
ただし、母方の叔父は朝廷公認の市廛商人で、富豪であったため、没落したとの説も信ぴょう性が乏しい。
けれども、商人も訳官も派閥闘争に何らかの形で絡んでいたため、援助し得なかったのかもしれない。
もう一説には、美貌を買われ、南人で母の情夫の趙師錫(チョ・サソク)と王族の東平君(トンピョングン:동평군)に推挙され、大王大妃殿の内人(ナイン)として入宮したというもの。
この場合、チャン・ヒビンは19~22歳であるため、幼少の頃から入宮する宮女の慣例から大きく逸脱し、信ぴょう性にかける。
粛宗の治世初期、朝廷の派閥闘争は西人(ソイン:서인)と南人(ナミン:남인)で行われており、南人が主導権を義っていた。
西人には、女性ながら政治に介入する粛宗の母の明聖王后(ミョンソンワンフ キムシ:명성왕후:1642-1684年)がいた。
一方、のちのチャン・ヒビンである張玉貞は南人有力者の後宮対策の先鋒だった。
粛宗の最初の中殿である仁敬王后(インギョンワンフ:인경왕후)が亡くなった1680年に10月26日以降に、張玉貞は寵愛を受けることになる。
だが、政治介入する烈女・明聖王后に疎まれ、王の恩を受けた承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)を宮中から追い出してはならない不文律があるにもかかわらず、宮中から追い出されてしまう。
これは、同年、立て続けに起きた南人勢力の不敬・不祥事により、怒りを顕にした粛宗による南人勢力の排斥と連動している。 いわゆる庚申換局(キョンシンファングク:경신환국)だ。
当ページの短縮URL http://kjidai.com/historia/?p=28
[ad#ad-336×280]