ケベクは本当に妻子を殺したのか?
BSフジでの階伯(ケベク:계백)が最終回を迎えました。有名な黄山原(ファンサンボル:황산벌)の戦いと、その周辺のエピソードです。
階伯は妻子を殺し決死の覚悟で戦いに臨みます。けれども、これは本当にあったことだったのでしょうか?
結論から言うと、史書には記載があるものの、フィクションである可能性が高いことがわかります。以下に理由を上げていきます。
まず、このエピソードなどが記載されている歴史書ですが、三国時代の終焉から約400年のちの1145年に成立した朝鮮半島最古の歴史書で、高麗(コリョ:고려)の儒者で歴史家の金富軾(キム・ブシク:김부식)が王命により編纂した三国史記(サムグクサギ:삼국사기)です。
金富軾は新羅(シルラ:신라)系の人物です。三国時代を生き残った新羅はのちに高麗(コリョ)に禅譲するのですが、高麗には少なからず新羅系の文官がいました。そのような状況下で編纂された三国史記はいたるところに新羅史観による捏造が垣間見えます。階伯(ケベク)についてもその一つです。
まず、新羅が三国を統一したとの史観は、もちろん三国史記を重んじてのものです。けれども、客観的に見て半島を確固たる一国に統一したわけではない上に、唐を誘引して姑息な統一を成し得たとの史観も多勢であるため、北朝鮮では半島をはじめて統一した王朝は高麗という学説が定説になっています。個人的にもこの学説を支持します。
当時にもひょっとすると新羅の姑息さを避難する声があったのかもしれません。そのためなのでしょう。百済(ペクチェ:백제)最後の王・義慈王 (ウィジャワン:의자왕)を享楽にふけるダメな王にでっち上げる必要がありました。また、勇猛な武人を作り上げ王都対比させ、その亡国の英雄を倒して新羅の格を上げる工作も必要でした。
こうして、それまでは無名であったと思われる階伯(ケベク)を百済の大英雄に仕立てあげたのです。実際に、三国史記で階伯について書かれている文字は漢字で159字しかありません。しかも、黄山原(ファンサンボル:황산벌)の戦いより前に彼の名前が指揮官として出てきたことも一度もありません。そんな彼を英雄視するには、魂胆があったとしか言わざるを得ません。
そして、当記事の題目にもした「ケベクは本当に妻子を殺したのか?」ですが、これも捏造と言わざるを得ません。
ドラマの最終回を見ればわかると思いますが、階伯は決死の覚悟で出陣します。けれども、黄山原(ファンサンボル)の戦いは一連の戦闘の初期段階のものでした。そんな前哨戦に挑む際に、妻子を殺す必要なんて無いのです。
また、百済軍5千対、新羅軍5万の戦いということで、いかにも百済が劣勢のように見えますが、実際にはそうでもありませんでした。新羅の軍の大半は、お船に乗ってどんぶらことやって来る唐のための兵糧を運ぶ補給隊でした。そのため、ある程度勝利を目算していたにもかかわらず、階伯は破れてしまったのです。
これにより義慈王 (ウィジャワン)の算段も狂ってきます。実は戦う前に王は長期戦と短期戦の二択を迫られていました。 長期戦は成忠(ソンチュン:성충)がプランニングし興首(フンス:흥수)も支持していたもので、短期戦は彼らの反対勢力が支持したものです。
すでに成忠は他界し興首は流刑の身であったため、政治的判断でやむを得ず短期戦を選択したのですが、結局それが仇となり、黄山原(ファンサンボル)の戦い後の本戦にも敗れ亡国の王となってしまったのです。
一応今のところはケベク英雄説が正史として扱われていますが、そろそろ学説を変更しても良い頃だと思います。
ちなみに、階伯の家が復元されていたり、墓が整備されていたりしますが、前者は全くの架空のものです。後者は口伝によるものということですが、韓国では近年確固たる論拠もないままにこのような史跡を作って町おこしをしている事が多いため、眉唾ものと思っておいたほうが無難です(汗)
ケベクは本当に妻子を殺したのか?
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