百済の歴史は捏造されている?
2012/11/26
前回からの続き。
「韓国の教科書などでも採用されているこのような百済の王統や歴史は、捏造されている可能性が高い」と、記述したが、そのことについて検証してみる。
高句麗(コグリョ:고구려)は紀元前37年に、百済(ペクチェ:백제)は紀元前18年に建国されたというのが定説だが、果たして本当だろうか?
歴史とは勝者の歴史であり、3国時代の覇者は新羅(シルラ:신라)だった。
そのため新羅至上主義の歴史観が通説となってしまっているが、真相は異なっているようだ。その背景を見ていこう。
朝鮮半島の歴史書で最古のものは、高麗(コリョ:고려)の儒者で歴史家の金富軾(キム・ブシク:김부식)が王命により編纂した三国史記(サムグクサギ:삼국사기)だ。
成立したのは1145年だから、三国時代の終焉から約400年が経過している。
400年後だからといって信ぴょう性がないというわけではないが、資料となった半島の歴史書はすべて逸失本となっているため、出典となった資料の質の良否がわからない。
そのため、この書の記述を鵜呑みにはできないのだ。
もう一点、高麗は高句麗の意思を引き継いだ王朝ではあるが、先年までの統一王朝新羅(シルラ:신라)の正当性をも引き継いだ。
そのため、新羅が三国の中で一番高尚でなければならず、そのことによるバイアスが、三国史記の編纂にもかかっているのだ。
三国史記によると、新羅の建国は紀元前57年で、高句麗よりも20年ほど早い。
ここに恣意的な意図が見て取れる。
三国の中で最古の王朝が最終的に三国を統一したというストーリーを作ったのだ。
その証拠を以下に説明する。 前回、高句麗を離れた温祚(オンジョ:온조)が百済を建国したと記述したが、このことはまさに三国史記に記載があり、高句麗建国の19年後に百済が建国されたという間隔は現実的だ。
問題はその起算年。実は漢についての史書「漢書・地理志巻28下」に、漢が古朝鮮を滅亡させ、漢四郡を設置する時点で、玄菟郡(ヒョントグン:현토군)の中に高句麗が存在していたとの記載があるのだ。
ようするに、古朝鮮時代には高句麗はすでに興っているのだ。
次の資料として有力なものに広開土太王(クァンゲトテワン:광개토태왕)碑がある。
これによると、広開土太王は高句麗の始祖朱蒙(チュモン:주몽)の17世孫とある。けれども、三国史記の記録を読解すると12世孫となっているのだ。 なぜ5世代も異なるのか?これこそがまさに捏造そのものなのだ。
1世代の間隔は一概には言えないが、平均して30年程度と考えると、高句麗の始まりはプラス150年した紀元前187年前後であると考えられる。
3つ目の資料として、高句麗を滅ぼした唐の高宗と、側近の賈言忠(カ・オンチュン:가언충)とのエピソードがある。
長年の高句麗との戦いに辟易していた高宗に
「高句麗秘記には高句麗は建国900年にならず、80代の将軍によって滅ぼされるとあります。高氏(高句麗王族)が建国して現在で900年目で、李勣将軍(イジョク チャングン:이적장군)は齢80です。彼を派遣し高句麗を滅ぼしましょう。」
と語り、高宗はそのとおりに実行して、遂に高句麗を滅亡させた。
このことからわかることは、この時、高句麗は建国900年に達する国だとの認識があったということだ。
逆算すると、紀元前202年に興った中国の漢より以前の、紀元前233年となる。
また、北朝鮮では考古学的見地により、紀元前277年が高句麗建国の年とされている。
いずれにしても、韓半島に現存する最古の史書「三国史記」の、高句麗に関する記述は信ぴょう性が低く、高句麗の歴代王の何人かは端折られている可能性が高い。
前述した何れの資料を鑑みても、高句麗の建国が200年ほど遡ることは間違いなさそうである。
そうなると、百済についても20年ほどしか下らないため、新羅よりもずいぶん早く建国したことがわかる。
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