癸酉靖難(ケユジョンナン) 前編
2019/01/16
癸酉靖難(ケユジョンナン:계유정난)
『王女の男』だけでなく『王と妃』など数々のドラマで取り上げられている、朝鮮王朝氏の中でも特に有名な政変です。
1453年(端宗1)10月10日に首陽大君(スヤンデグン:수양대군)が第6代端宗(タンジョン:단종)を保護する顧命大臣(コミョンデシン:고명대신)の領議政(ヨンイジョン:영의정)皇甫仁(ファンボ・イン:황보인)、左議政(チャイジョン:좌의정)金宗瑞(キム・ジョンソ)以下多数を殺戮して、政権を奪取した事件です。
癸酉は干支で1453年を表し、靖難は国家の危機を平定したことを意味します。
癸酉靖難(ケユジョンナン)を説明するには数年さかのぼって歴史を説明する必要があります。
1450年2月17日、聖君のほまれ高い第4代世宗(セジョン:세종)が身罷り、長男が第5代文宗(ムンジョン:문종)として即位します。けれども、彼はとても病弱で、1452年5月14日、わずか2年の治世で身罷ります。
そして、12歳の幼い息子・第6代端宗(タンジョン:단종)が即位します。世宗の次男・首陽大君(スヤンデグン)にとって端宗は甥であるとともに、崇め奉らなければならない王となりました。悲劇はここから始まります。
首陽大君(スヤンデグン)は質実剛健で、もともと王の器がありました。けれども、朝鮮初期の王子たちによる王位継承闘争を反面教師に世宗は長子相続の原則を打ち出し、病弱な長子を王に据えたのです。
首陽の祖父・第3代太宗(テジョン:태종)も父・世宗(セジョン)も長子ではないのに王位についています。自分に資質がないならまだしも、多くの兄弟の中で最も王の風格を持った自分が王になれず、幼い甥が王位についたことに忸怩たる思いがありました。また、能力のある王族は常に危険人物とみなされ削除対象になります。そのようなあらゆるジレンマに首陽は苛まれていました。
文宗(ムンジョン)は自らの死を予感し、息子を輔弼させる権力を持った元老を朝廷のトップ三政丞(サムジョンスン: 삼정승)に任命しました。領議政(ヨンイジョン)皇甫仁(ファンボ・イン)、左議政(チャイジョン:좌의정)南智(ナム・ジ:남지)、右議政(ウイジョン:우의정)金宗瑞(キム・ジョンソ)です。
端宗即位後の1452年10月、南智は病気により職を辞したため、左議政には金宗瑞が上がり、右議政には新たに鄭苯(チョン・ボン:정분)が任命されました。前3者がいわゆる顧命大臣(コミョンデシン)です。顧命とは王が臨終前に口頭で遺言を述べることで、それを受けることは後の勢力維持にとても重要なことでした。文章ではないため改ざんの余地もあり、自らの勢力に都合の良いように解釈・発表することもできるうえに、権威的でもありました。
世宗は自らの王権も安定していたこともあり、各部門を直接王の下に配置する六曹直啓制(ユクジョチッケジェ:육조직계제)ではなく、三政丞(サムジョンスン)たちにある程度権限を移譲する議政府署事制(ウィジョンブソサジェ:의정부서사제)をとっていました。王権が強い時には円滑な政治を行えるこの制度も、王権が弱くなると臣下の専横を招きます。
病弱で短命な王と歳若い王が続き、目に見えて王権は弱体化して行き、臣下の専横が著しい状況に、首陽大君(スヤンデグン)は耐えられませんでした。集賢殿(チッピョンジョン:집현전)の知識人たちも顧命大臣(コミョンデシン)たちの専横の度が過ぎることを憂いていました。そのため、この政変においては中立の立場を取るものが多かったのです。
首陽の叔父で世宗(セジョン)に世子の座を移譲した讓寧大君(ヤンニョンデグン:양녕대군)は宗親(チョンチン:王族)の長老として首陽の後ろ盾になりました。この後ろ盾の力が凄まじい事は言うまでもありません。
また、端宗(タンジョン)にとって悲劇的だったことは、内命婦(ネミョンブ)に後ろ盾がなかったことです。一般的には男性より女性が長生きするため、先王が比較的早く亡くなり歳若い王が即位する場合には、先王の妃が王大妃(ワンデビ)としているか、さらには王の祖母が存命なら大王大妃(テワンデビ)がおり、臣下や他の王族もうかつな行動が取れなかったのです。けれど、祖母の昭憲王后(ソホンワンフ:소헌왕후)も、母の顕徳王后(ヒョンドンワンフ:현덕왕후)もすでに亡くなっていました。
首陽大君(スヤンデグン) の対抗軸には一歳下の弟・安平大君(アンピョンデグン:안평대군)がいました。彼は文や書に秀で兄の世子(セジャ)や首陽とともに集賢殿(チッピョンジョン)に出入りし、父・世宗の仕事を手伝うほどの秀才でした。首陽が文武にバランスのある人物だったのと違い、安平(アンピョン)は文に秀でていたため、集まってくる者も多かった反面、風流人がほとんどで、対抗勢力とは成り得ないのが実情でした。
安平(アンピョン)は結果的には癸酉靖難(ケユジョンナン)において顧命大臣(コミョンデシン)と徒党を組んでいたとして最終的には死ぬことになりますが、実録に残っている記録は勝者の記録で、実際のところは王位簒奪などの謀心は抱いてなかったと言われています。ただ単に兄への対抗心が旺盛だったために、悲運の死を迎えることとなったのです。
話を時系列に戻しましょう。
首陽大君(スヤンデグン)は端宗(タンジョン)が即位して2ヶ月後の1452年7月ごろから、策を練っていたと言われています。彼に忠誠を誓い共に行動した權擥(クォン・ラム:권람)を筆頭に策士・韓明澮(ハン・ミョンフェ:한명회)や洪允成(ホン・ユンソン:홍윤성)などの人材を数珠つなぎに集め関係を深めていきました。
1452年9月以降、顧命大臣(コミョンデシン)から危険人物とみなされていた首陽大君(スヤンデグン)は、その疑惑を避けるために、自ら誥命謝恩使(コミョンサウンサ:고명사은사)を買って出ます。誥命とは上国(当時は明)の皇帝から正式に王として冊封を受けることで、その礼として謝恩使を出すのがならわしでした。
朝鮮から一時的に離れることで、疑惑を払拭したのです。このとき書状官(ソジャングァン:서장관)として同行した集賢殿(チッピョンジョン)出身の優秀な官吏だった申叔舟(シン・スクチュ:신숙주)と親交を深め、自陣に引き入れます。
1453年4月、明から帰ってきたのちは具体的な計画を推進するために、洪達孫(ホン・ダルソン:홍달손)や楊汀(ヤンジョン:양정)などの武人とも関係を深めていきます。
そして、ついに1453年10月10日に行動に出るのです。
後半に続く!
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癸酉靖難(ケユジョンナン) 前編
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