朝鮮国王名の祖(조)と宗(종)の違い
2014/06/07
朝鮮王朝には27(26)の王がいましたが、大別すると名前に祖(ジョ:조)と宗(ジョン:종)が付いています。
この名前の差はいったいなんでしょう? ※反正(パンジョン)により王位を追われた燕山君(ヨンサングン:연산군)と光海君(クァンヘグン:광해군)を除く そもそもこれらの王の名称は廟号(びょうごう:ミョホ:묘호)といい、死後に先祖を祭る廟に列するための名です。
日本の天皇の名称などもそうですが、この廟号も決して即位したときから呼ばれる名前ではありません。
さて、「祖(ジョ:조)」ですが王朝の創始者とそれに準ずる「功」のあった王につけられました。
反正(パンジョン:반정)後の王や、大乱を経験した王は「功」があったとされています。 歴代王の中で7王に付けられています。(後ほど記載)
その他の王には基本形と言ってよい「宗(ジョン:종)」がつけられています。
その御世に乱などもなく「徳」をもって国を治め、文物を隆盛させた功績をたたえられました。
格としては祖>宗とされていますが、一概には言えません。
では、個別に見ていきましょう。
初代 太祖(テジョ:태조)李成桂(イ・ソンゲ:이성계) 1392~
創始者ですので異論はないですよね。
7代 世祖(セジョ:세조) 1455-1468
この王はヒール(悪役)として描かれることも多いですし、サクサク個人もそんな印象を持っています。
建前上、幼くして即位した甥の6代端宗(タンジョン:단종)が、悪臣にいいように政治を牛耳られていたため、その体制を打破するために立ち上がり自らが王になりました。
14代 宣祖(ソンジョ:선조) 1567-1608
統治期間を見てもわかるように、秀吉の朝鮮出兵・壬辰倭乱(イムジンウェラン: 임진왜란)時の王です。
実際は判断を誤ったために亡国寸前まで陥ったのですが、滅亡しなかったことを「功」とされました。
16代 仁祖(インジョ:인조) 1623-1649
もともと仁祖反正(インジョパンジョン:인조반정)でクーデター後に擁立された王。
その後も女真人が起こした中国の王朝清に攻められた丙子胡乱(へいしこらん:ピョンジャホラン:병자호란)を経験。
歴代有数の不運な王と言って差し支えないと思います。
この宣祖と仁祖はともに自らの御世に起きたことを恥じ廟号に「祖」をつけることを拒んだとされていますが、その願いもかなわず、ふがいない王にもかかわらず「祖」を付されました。
宣祖については「ホンギルドン」の生みの親でドラマの主人公にもなった許筠(ホ・ギュン:허균)や、後に彼と敵対した李爾瞻(イ・イチョム:이이첨)が、当初宣宗だったのを改変するよう主張して宣祖としました。
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21代 英祖(ヨンジョ:영조) 1724-1776 22代 正祖(チョンジョ:정조) 李祘(イ・サン:이성)1776-1800 23代 純祖(スンジョ:순조) 1800-1834
線引きしたこの3王にはもともとは「宗(ジョン:종)」が付されていました。
正祖(チョンジョ:정조)については、大韓帝国時代の1899年、父であるに荘祖(思悼世子:サドセジャ)の廟号が追尊されたのちに、正宗の廟号も正祖に変えられました。
正祖宣皇帝の諡号を追尊されたところを見ると、国威発揚が狙いだったのでしょう。
清の朝貢国だったときには使えなかった「帝」の称号を使っていることでもそれがわかります。
さて、上記の基準に照らし合わせてみると、一人の王が浮かび上がってきます。 それは第11代中宗(チュンジョン:중종) 1506-1544 です。
チャングムが看病をした王としても日本ではすっかり有名になった王ですが、朝鮮王朝史に最悪の暴君として名をはせた燕山君(ヨンサングン:연산군)を失脚させたのちに王位についたのがこの中宗です。
中宗反正(チュンジョンバンジョン:중종반정)で王位についたにもかかわらず、なぜ「祖」が付されなかったのでしょう?
中宗崩御の後、第12代仁宗(インジョン:인종) 1544-1545 は亡き先王へ「祖」を付すべく、礼楽・祭事を司る礼曹(イェジョ:예조)に助言を受けました。
中宗は確かに反正後の王ではあるが、第9代成宗(ソンジョン:성종) 1469-1494 の直系であるため、「祖」を付するのは適当ではないとのことで、最終的に「宗(ジョン:종)」を付すこととなりました。
結局のところ、往時の政治体制や派閥闘争、対外政策・臣下としての建前などが微妙に絡んで差異が生まれたようです。
というわけで、後世の歴史家の評価と違うのは当然のことなのです。
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