日東壮遊歌 金仁謙 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録
2019/09/11
日東壮遊歌(にっとうそうゆうか:イルトン チャンユガ:일동장유가)
北星学園大学で教鞭をとられている高島淑郎氏が訳したものを読みました。
「ハングルでつづる朝鮮通信使の記録」という副題のついています。(以下、当書籍からの引用あり)
当サイトとのお付き合いの長い方には、普段は情報の真偽が定かで無いため、日本語になったガイドブックや解説書等をまず読むことがないというのは周知のことかと思いますが、このような学術系の史料は日本語のものも読んでいます。
今回もとても勉強になりました!
さて、作者の金仁謙(キム・インギョム:김인겸:1707-1772)は安東金氏(アンドンキムシ:안동 김씨)という名門家門の出自で才に恵まれながら、庶出の末裔ということで冷や飯を食っていた人物です。
生存年からもわかるように、英祖(ヨンジョ:영조:1694-1776)代の儒者です。
彼は1753年に47歳で科挙の進士(チンサ:진사)に合格し、1763年に57歳で第11回朝鮮通信使(日本通信使:イルボン トンシンサ:일본 통신사)に三房書記(サムバンソギ:삼방서기)として随行しました。
現代の感覚で言うと外交書記官ですので、花形の役目かと思われるかもしれませんが、はっきり言って貧乏くじです。
それなりの安全は確立されていたとはいっても、日本までの船旅には危険がつきものですし、ましてや150年前には朝鮮をズタズタにした国へ行くのです。
現代のような情報化社会でも隣国への誤解が多々生じますが、当時はそれに輪をかけた状態でした。「日本人=辺境島国の野蛮人」というのが当時の常識だったのです。
貧乏くじということがよく分かるものに、彼の出自があります。
さすがに正使ともなると王の名代ですのでそれなりの人物があてがわれるのですが、書記官の場合、大事な嫡出子に危険が及んではと、名門家門は忌避するのが常でした。
そのため、庶出の中から文章に優れたものがその任につくのです。実際、金仁謙はとても文才のある人物でした。
この日東壮遊歌は金仁謙(キム・インギョム)が子孫へ残すために綴った紀行歌辞(キヘンカサ: 기행가사)で、漢文のものをハングルに書きなおしたものです。
そのため、彼独自の見解もふんだんに交えて形式張っておらず、現代人が読んでもとても興味深いものになっています。
日東壮遊歌の内容
さて、日東壮遊歌の内容ですが、最初は反日的な見解が優勢で、飯がまずいだの対馬人の性根が悪いだの、結構悪口が目立ちます。
けれど、どうやら日本に慣れてきたのか物の見方が変わってきて、日本の儒者や文士にもなかなかのものがいると褒めたりします。
また、サツマイモがあまりにも美味しいという表現などもあります。サツマイモはこの時初めて朝鮮半島に渡り飢饉対策の農作物として広まりました。
そして、大阪に入り完全に度肝を抜かれたようで、11隻の金や漆を施された楼船を見て「万古に例を見ない」と、驚嘆しています。
また、淀川は臨津江(イムジンガン)程は大きくないと前置きしたうえで、その両岸に漆喰の塀に囲まれた金や朱で飾られたクジラの背のように大きい人家が連なる様子を見て、「仙人の住む金闕銀台」と表現しています。
本願寺・津村別院(北御堂)へ行く道すがらの賑わいは「鐘路(チョンノ)の万倍も上」と表現。
現在でもソウルの繁華街の鐘路で、ドラマ・李祘(イ・サン:이산)でも漢城一の賑わいの場として鐘路の雲従街(ウンジョンガ:운종가)が出てきますね。
万倍は大げさにしても、相当の規模の差があったことが見て取れます。
ズラッと並ぶ縁側には見物人が溢れかえるほどいるのに、大声をだすものもおらず、子供は前へ大人は後ろに並び、整然と自分たちを見ていると描写しています。
お上からお達しがあったとはいえ、現代の日本人の気質は、この頃から脈々と続くものだったのですね。
宿所の北御堂についても「建物は宏壮雄大、我が国の宮殿よりも大きく高く豪奢」と表現しており、この大阪の地が壬辰倭乱(イムジンウェラン:임진왜란)・丁酉再乱(チョンユチェラン:정유재란)の元凶・豊臣秀吉が収めた地であることに忸怩たる思いを表しています。
反面、出された食事が合わなかったらしく、食べるものがひとつもないとの記述も。
ひげを金で飾ったイセエビの刺身などもダメだったようです。
もったいない(笑)
大阪一望
高台から大阪の街を眺めた時にも金仁謙は驚嘆しています。
「漢城府(ハンソンブ)は1里四方もないのに大阪は十里四方もあり戸数は百万ある。金持ちの宰相の家でも百間しかないのに、ここでは千間の邸宅もある。その奢侈は異常なほど」と表しています。
※間(カン)は柱と柱の間という意味です。
同行者に北京に行ったものがおり、大阪と比較した談があるのですが、当時の「燕京(北京)も大阪には及ばない」と言っています。
このあとの文章では辛辣な言葉で日本をけなしていますが、けなすというより超大な嫉妬心です。
ひっくるめて書いくと、「礼法のわからない獣のような日本人が繁栄を謳歌していることへの嫉妬と憤懣」です。
淀城
このあと彼らは淀城へ。
ここでは川辺にある城の様子が珍しく、また、水車を巧みに使い場内に水を引き込んでいる技術に「驚嘆の極み」と感心。
これは朝鮮王朝の技術が発達していない例として引き合いに出される故事ですが、1607年の通信使以来、常にこのすばらしい技術を導入したいと言っているものの、ついに導入されることはありませんでした。
※MBCのセットに大きな水車が出てきますが、あれは完全な時代考証無視です(汗)
京都
次は京都。
ここは大阪ほどではなく三里四方の街と表現。
しかし、ここでまた嫉妬と憤懣がエスカレート。
「犬にも等しい日本人をすべて成敗し朝鮮の国土として、王の徳で礼節の国にしたい」と書いています。
名古屋
さらに道程は進み名古屋へ到着。
大阪同様に豪華壮麗だと記述。
朝鮮の三京(漢城・開城・平壌)もここに比べれば寂しい限りだとも。このあたりからは憤懣するのも疲れてきたのかもしれません。
「女人が飛び抜けて美しい」とか言い出しました。
かつては徳川家が美人をすべて江戸に移動させたために「三大不美人地帯」と言われた地ですが、金仁謙には美人の宝庫だったようですね(笑)
富士山
富士山を見た時には、最初は大したことないと言っていたものの、芦ノ湖にたどり着いた時には、自国の山や湖と比較して、湖もあわせて大絶景だと褒め称えています。
江戸
そして、ついに江戸に到着します。「大阪や京都に比べ三倍は勝っており、三里に渡り人がおり百万人はくだらない」と記述
。女人にももちろん言及していて「名古屋に匹敵する」と書いています。
名古屋びいきな金仁謙さんですね(笑)
日本への影響
金仁謙が驚嘆したことばかりを書きましたが、彼らが日本に与えた影響はどうだったのでしょうか?
道中は漢詩や儒学を学ぼうと、日本の儒者や文士がこぞって書記官のもとに訪れています。
延べ数千の詩を書き、また筆談し、文化交流が行われました。
逗留したその地その地で、腱鞘炎になってもおかしくないほどの数の返詩を求められています。
朝鮮は文治で日本は武士による統治であったため、文の世界では朝鮮のほうが長けていたことが伺えます。
また、馬の曲芸なども日本人にとても人気があったようです。
まとめ
こうして改めて日東壮遊歌を読んでみると、現代と250年前の両国の関係性にとても多くの類似性を見出すことができます。
朝鮮側から見れば東方の島国に住む蛮族に自国が蹂躙された戦後であり、心情的に忸怩たる思いがあるものの、その反映を目の当たりにしてジレンマを抱えているのです。
現代でも韓国人はあまり口に出しませんが、羨望の眼差しと恨とが交錯してジレンマを抱えていますね。
現代ではサムスンやポスコなどの一部の企業が日本の企業を駆逐してはいるものの、なんやかんや言ってこの小さな島国日本は世界第3位の経済大国です。
なんとなく韓国のほうが威勢がいいように見えますが、実質は腐っても鯛の日本のほうが、国力でははるかに凌駕しています。
客観的に見ても、この400年間は間違い無く日本のほうが半島を凌駕した繁栄を誇っていることを、日東壮遊歌を読んで改めて実感しました。
また、韓国時代劇があまりにも華やかに描かれすぎていることを再確認し、ドラマに引っ張られない歴史観を持っていなければ、時代の客観的評価はできないと、改めて認識しました。
けれど、国力云々を抜きにして、日東壮遊歌には互いに学ぶべきところがたくさんあることも知らしめています。
隣国とはどうしても牽制しあいがちにはなってしまいますが、ディープに仲良くなろうとせずに、伝統的な付かず離れずのケンカ友達でいればいいのではないかと。
金仁謙も日東壮遊歌の中で懇意となった文士との別れが辛く、また日本の文士も自分との別れを惜しんでいると、人情に古今東西はないと言っています。
ほんとにこれは真理ですね。
個々人に交流し良い関係を気づけば相互理解は進んでいきます。
あと数百年はかかるのかもしれませんが(汗)
さて、朝鮮通信使は金仁謙が参加した第11回が本格派遣の最後になります。
その後はフェイドアウトしていくのですが、元祖韓流の朝鮮通信使のフェイドアウトと2012年の両国間の緊張はデジャヴュなのかもしれません。
ひょっとすると韓流の終わりの始まりになるのかと思ってみたり・・・。「歴史は繰り返す」といいますからね!
はたまた、両国間に新たな関係が切り開かれるのか?このあたりのことを考えると頭が痛くなってくるので、過去に逃避してこのサイトを続けていきたいと思います(笑)
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