ケベク 階伯
2012/12/05
階伯(ケベク:계백)将軍(?~660)。
以下は新羅史観的記述。
百済(ペクチェ:백제)末期の悲運の名将。品階は達率(タルソル:달솔:第2品)
羅唐連合軍(新羅と唐)が百済を攻撃すると、西暦660年7月10日、階伯(ケベク)は5000人の兵を率いて出陣、黄山原(ファンサンボル:황산벌)では新羅(シルラ:신라)の名将金庾信(キム・ユシン:김유신)の5万の軍と対抗して4度も撃破した。
当時、新羅が漢江(ハンガン:한강)流域を強制的に占領することによって、その時点まで締結していたの新羅と百済の羅済同盟(ナチェドンミョン:나제동맹)が決裂すると、すぐに百済は高句麗(コグリョ:고구려)・倭国(日本)などと親交を結んで新羅に対抗した。
孤立状態に陥った新羅は唐(当時の中国王朝)と同盟を結んで援軍を要請した。 唐の皇帝高宗(コジョン:고종)は蘇定方(ソ・ジョンバン:소정방)を神丘道大摠管(シングド テチョングァン:신구도 대총관)に任命して軍とともに海を渡リ新羅を支援し、羅唐(ナダン:나당)連合軍の総数5万が百済を攻撃し始める。
この時、百済の義慈王 (ウィジャワン:의자왕)は享楽にふけ、忠臣らの諌めや作戦計画もはね除けていた。
けれども、事態が急激に悪化したことを悟ると、階伯(ケベク)を将軍として敵と対峙させる。 階伯(ケベク)は死ぬことを覚悟しつつも5,000の兵を率いた。
すでに百済の滅亡を悟り、生きて奴婢になる憂いを断つため、自らの妻子を全て殺して悲壮な決意を見せた。
黄山原(ファンサンボル:황산벌)に達して三陣営を設置したのち、階伯(ケベク)は兵士達にこう言った。
「昔、句践(クチョン:구천)は5,000の兵でで呉国(ゴコク)の70万の大軍を打ちのめした。本日、当然、各自がありったけの力を出し合って、最後の結着をつけよう」 と。
そして、後に半島を統一することとなる新羅(シルラ:신라)の名将金庾信(キム・ユシン:김유신)の5万の軍をむかえ、階伯(ケベク)はそのうち四回も撃破した。
この百済の攻勢により新羅軍の士気を失墜させていたその頃、新羅の将軍・品日(プミル:품일)は16才になる幼い息子・官昌(クァンチャン:관창)と共に出陣していた。
官昌は百済軍と戦い生け捕りにされた。
階伯(ケベク)は幼いながらも勇戦した官昌に感じ入り生かして送り返したが、官昌は再度出陣し再度生け捕られた。階伯(ケベク)は、新羅にこのような勇敢な少年がいることに、百済の敗北を悟った。
彼は官昌の首をはね彼の馬の鞍に縛って新羅軍の陣営に送りかえした。そのことで予想どおり新羅軍の士気は高まった。
総攻撃を敢行した階伯(ケベク)は遂に戦死した。
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