王妃たちの朝鮮王朝 検証
2013/09/15
BS歴史館「美しく悲しい女の戦い~王妃たちの朝鮮王朝~」見ました。
「NHKだけあって、映像資料も多く、とてもためになる番組でした」と、言いたいところですが、ところどころおかしな所があって、とても残念でした。
ちょっと検証していきましょう。
1.どうして景福宮?
朝鮮の王宮というと景福宮(キョンボックン:경복궁)が連想されますが、一番長く270年もの間、朝鮮王朝の本宮として使用されたのは昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)です。
映像資料として使われていたトンイやイ・サンも昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)が舞台なのです。
そのことを説明しておかないと、1592年以降、焼け野原だった景福宮(キョンボックン:경복궁)が存在していたと誤解すると思うのですが、どうでしょう?
※昌徳宮の図解などはコチラ → トンイ考 昌徳宮(チャンドックン)
2.七段階に階級分けされた側室?
下記のように正しくは八段階です。 承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)は正式な後宮ではありません。
放送の中盤、王位継承権の説明のときに資料が写ってましたがそこにはしっかり下記のような記述が載っていました。
なぜ七段階にしたんでしょうね~。しかも、図解まで付けて。
正一品(チョンイルプム:정1품) 嬪(ピン:빈)
従一品(チョンイルプム:종1품) 貴人(クィイン:귀인)
正二品(チョンイプム:정2품) 昭儀(ソウィ:소의)
従二品(チョンイプム:종2품) 淑儀(スグィ:숙의)
正三品(チョンサムプム:정3품) 昭容(ソヨン:소용)
従三品(チョンサムプム:종3품) 淑容(スギョン:숙용)
正四品(チョンサプム:정4품) 昭媛(ソウォン:소원)
従四品(チョンサプム:종4품) 淑媛(スグォン:숙원)
トンイ考 チャン・ヒビン誕生 内命婦(ネミョンブ:내명부)とは? を参照のこと
そして、「誰もが皆、王に認められると、王妃の座を勝ち取れるチャンスを持っていたのです」とありましたが、このナレーションはいまいち適切ではありません。
朝鮮王朝519年の間で宮女から中殿(チュンジョン:중전)になったのは、後にも先にも禧嬪張氏(ヒビンチャンシ:희빈장씨)だけです。
この背景には母親譲りの気性を持った粛宗(スクチョン:숙종)が、換局(ファングク:환국)という、言ってみれば「ちゃぶ台をひっくり返す」荒業をやってのけ、後宮の体制をもリンクさせたからです。
一般の王なら儒教的規範を鑑みて、宮女上がりを中殿にすることはありません。
3.519年に渡る長期の王朝維持は外交?
どうして朝貢の説明をしないのでしょうね?
王朝の維持のために臣下の礼を取ると同時に安全保障も確立しているのですから、説明してしかるべきなのに、「外交」と曖昧な表現を指定ました。
また、朝鮮半島の王朝は後三国時代を除けば総じて国の寿命は長いのです。 高句麗は1000年近いし、百済も600年以上、新羅も約1000年、高麗も475年続いています。
これについては中原の大国とのパワーバランスもありましたが、朝鮮人の気質と易姓革命の概念がマッチしていたともいえます。
ですので、朝鮮王朝だけが長いわけではないことも重要なのです。 もっとも、TV番組ですので、お偉い先生方は解説したのに、編集でカットされている可能性はあります。
4.チャン・ヒビンの経歴
韓国歴史のチャン・ヒビン1にまとめているので、読んでいただければわかりますが、現在では有力説でない方の説をもとに番組内では話が進められています。(おそらく紹介された著書の内容)
日本でも少数説や過去多数説だったが覆されたという説が、情報の更新をしないまま、まさにこうだったと断言されることがありますが、とくに韓国での歴史研究は日本史ほど進んでいないのが現状なので注意が必要です。
大先生と言われる方でも、しれっと自説を変えていたりしますもん(汗)
5.王位継承権
「早ければ(早く生まれたほうが)王位継承権を持つのが原則」と言っていましたが、そんなことはありません。 あくまでも、中殿の子を待ちます。
中殿に懐妊の兆しがない場合や、国防上の問題、第一子がけっこうな年齢となっている場合には王世子(ワンセジャ)に冊封します。けれど、数歳違いで先に生まれた後宮の子のほうが元子(ウォンジャ)や王世子になることはないのです。
6.朝鮮王朝は競争でのし上がれる余地がある?
そんなことはありません。韓国時代劇ファンのかたなら周知の通りですよね? 強力な家門に生まれつかないことには上昇なんてありえません。
たしかに、イ・ビョンフン監督の描くヒーローやヒロインはそうでしたが、その数人以外に強烈な身分上昇を成し得た人は519年の歴史のうち、いたとしてもせいぜい2ケタでしょう。
それぞれのカテゴリーで裕福になり、幸せな生活を送ることができた江戸の人に比べると、抑圧のされ方が朝鮮のほうが激しかったといえます。
7.廃妃尹氏
ボクとは解釈が異なりました。
以下にmixiのトンイコミュに記述した内容を添付します。
仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)の話も絡めています。
朝鮮王朝では夫の一方的な理由での離婚を固く禁止していたからです。
けれども、「七去之悪(チルゴジアク)」といって、離婚を実行できる条件がありました。このルールは高麗後期から適用されています。
全部記載すると長くなるので3つだけ抜粋します。
1.舅姑によく仕えない 2.男児を産めない 4.嫉妬
上記の条件に一つでも当てはまれば罪とみなし、離婚できました。 もちろん離婚しなくても構いません。家門の判断となります。
ですので、仁顕王后は「2」だけで離婚されても仕方なかったのです。
ただ、仁顕王后の場合には換局もリンクしているので、純粋に男子を産まなかっただけではありません。
女子しか産まない嫁ですが、当然ながら罪に問えます。
ただ、罪に問うかどうかは、その家門の判断に委ねられます。
燕山君の母の廃妃尹氏ですが、上記の説明でお分かりかと思いますが、「七去之悪」の「1」と「4」に該当します。
また、高麗から朝鮮初期までは男尊女卑ではなかったのに、暴君で第10代燕山君(ヨンサングン:연산군)の父・第9代成宗(ソンジョン:성종)の時代から急激に男尊女卑になりました。
これは、成宗の母・昭恵王后(ソエワンフ:소혜왕후:仁粹大妃:インステビ:인수대비)が婦女子の教書である内訓(ネフン)をまとめ、それにより成宗代以降の女子のあり方 を決定付けたからです。
彼女は男尊女卑の母といってもいいでしょう。
昭恵王后は、名門出身でなく強力な後ろ盾を持たない廃妃尹氏をうまくコントロールしたかったにもかかわらず思惑がはずれ、それどころか姑 である自身に逆らったこと。
また、王に嫉妬したこと。(龍顔に傷を付けたとも) 昭恵王后による離縁の判断は当然です。
その死については昭恵王后のやり過ぎというのが大勢です。
ほかにもちょこちょこと突っ込みを入れたいところはありましたが、解釈の差もありますので、このぐらいにしておきます。
NHKには番組制作の更なるブラッシュアップを期待して。
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