馬医7話 清から朝鮮への出兵要請はあったのか?羅禅征伐
イ・ビョンフン監督が演出するチョ・スンウ(조승우)、イ・ヨウォン(이요원)主演韓国時代劇・歴史ドラマ馬医(マイ/ばい:마의)第7話の解説&感想(あらすじ・ネタバレ含む)です。
第6話のコメント欄に質問があったため、今回はその回答をさせて頂きます。
内容は7話にも共通することです。
Q.清国へ献上する馬が病気になり王様と重臣たちの会議で左議政が、王様が清国の出陣要請を断わった云々と言っていましたが、これは実際にあった話なのでしょうか?孝宗は北伐を夢見て軍備増強に努めたそうですが、その軍隊に清国が出陣要請したのでしょうか?
A.少しフィクションが入っているようですが、朝鮮が出兵要請を受けたことは事実です。ただし、父王の孝宗(ヒョジョン:효종)の時代です。
馬医の6・7話あたりは顕宗(ヒョンジョン:현종)が即位年か翌年で、1659年か1660年だと思われます。この少し前、清はロシア帝国の前進ロシア・ツァーリ国ロマノフ朝と遭遇し、小競り合いを起こしていました。清は第3代順治帝の時代で、朝鮮は孝宗、ロマノフ朝はアレクセイの時代です。
そして、その小競り合いに朝鮮の兵が駆りだされたのが羅禅征伐/羅禪征伐(ナソン チョンボル:나선정벌)で、1654年と1658年の2度の戦闘がありました。これが、朝鮮とロシアの初遭遇です(清ロ間では他にも戦闘あり)。場所は現在も中ロの国境となっている黒竜江(アムール川)ですので、朝鮮からはかなり北です。
戦闘があったとはいっても、ロシアも西側ではスウェーデン等と北方戦争を行なっていて、大規模な南下ではありませんでした。そのため、朝鮮が出兵した数も少数で、第一次征伐で計150名(内、火器100)、第二次征伐で計260名(内、火器200)です。
当時の清は火器(銃)の装備が朝鮮のものより劣っていました。そのために朝鮮に援軍を要請したわけです。朝鮮は北伐を夢見ていたこともあり、火器の強化に勤しんでいたため、2回の征伐でその威力を十二分に発揮し、少数の犠牲者しか出さずロシアを退けるに至りました。
百科事典では朝鮮の射撃術と戦術が優れていたということしか書いていませんが、実はこれには裏があります。
まずひとつに、その火器の強さは日本軍の名残です。第4代世宗(セジョン:세종)のころに朝鮮の火器はめざましく発展したものの、その後の開発は停滞していました。そのため、150年後に遭遇した日本軍の火器と比べると全く劣ったものでした。
ようするに、孝宗代の火器は秀吉の朝鮮出兵・壬辰倭乱(イムジンウェラン:임진왜란:1592年)の際の落し物またはそのコピーです。それについては全く言及されていません。
また、清が朝鮮に出兵要請したのにも理由があります。清もまだ建国間もない頃で、前王朝・明の王族や遺臣が抵抗勢力として残存していました。最も有名なのが世界史の教科書にも出てくる鄭成功(てい・せいこう)です。
鄭成功は南部で勢力を結集して1658年に17万5千の大軍を率いて北伐を開始します。けれど、残念ながら成功するに至らず、結局は台湾に逃げ落ちるに至りました。ちなみに彼の別名は国性爺で、近松門左衛門による人形浄瑠璃作品の国性爺合戦の主人公です。(蛇足ですが鄭成功の母親は日本人です)
鄭成功の北伐と第二次羅禅征伐が同じ1658年ということからもわかるように、清は北方の小競り合いに人員を割く余裕がなかったことが見て取れます。そのため、朝貢国の朝鮮の軍隊を体よく使ったのです。
けれど、そんなに清に余裕が無いのなら、朝鮮が北伐をしかければ成功したのではないかとの仮定が成り立つ余地があります。ひょっとすると鄭成功と結託しロシアも引き入れて同時に攻めれば成功したかもしれませんが、現代のように遠方の友軍と瞬時に情報交換できる時代でもないため、成功の可能性はなかったと思われます。
また、朝鮮単独ではあまりにも軍事力が小さすぎました。鄭成功の軍は17万5千もいたのに北伐が成功していませんから、そのことからもわかると思います。
鄭成功が台湾に逃げ延びたことは、後年、朝鮮に思わぬ余波を産みます。それについては旧トンイ考にまとめていますので、興味があればご覧ください。
第8話に続く
挿入曲 馬医OST たった一つ(オジク タン ハナ:오직 단 하나) ソヒャン(소향)
http://xn--nckg7eyd8bb4eb9478fjr1g.jp/maui/?p=607